#9 REMEMBER YOU.
(一)
把手を押し込み、重い玄関ドアを開いてやれば、東からの風が耳元を吹き抜けていった。
春、色欲の業務は庭の草花への水やりに始まる。誰にでもできることなので色欲がやらなければならない理由は特にないのだが、彼女はこの仕事を存外気に入っていた。柔らかな陽光を浴びながら可愛らしい花々を愛でていると、こころなしか気分が高まる。
ホースで水を撒いてやれば、色鮮やかなパンジーたちが喜ばしそうに顔を揺らした。途中、葉に跳ね返された水滴がスカートを濡らしたので、「あら」と呟き水やりを一時中断した。水道の蛇口を捻り、水を止める。裾を持ち上げてぱたぱたと裏表させてみた。泥はついていなさそうだが、汚れの目立つ白のスカートだ。後で干しておこうかしら。
ホースの口先からは、管に蓄積されていた水がじわりと流れ出て、タイルの上を走っていた。何の気なしにその先を目で追う。視線を向けた先の路上、見知らぬ男と、目が合った。
柄にもなく呆然としていると、男の方が口を開いた。
「もしもし、そこのお嬢さん。七顚屋っつう便利屋は知ってるか?」
その言葉を聞き、我に返った色欲は慌てて階段を降りて門を開きながら答える。
「ええ、ええ、七顚屋は私どもの店でございます。失礼ですが、お客様ですか?」
「そうそう、話が早いじゃねえか! どうしても頼みたいことがあってここを探してたんだ。中に入っても?」
「ご案内いたしますわ」
色欲は男を先導し、彼を屋敷の中に招き入れた。開店時刻からものの数分で本日一人目の客を獲得するとは、今日は幸先がいい。
今日はなんて日だ。憤怒は客を目の前にしかめっ面を抑えることができずにいた。それもそのはずだ。この男、名前がないなどとほざくのだ。
話は数分前に遡る。
「ここってのは、何でも頼まれてくれる便利屋なんだよな」
ボロボロの布切れを被ったその男は、事務所に通されるなり馴れ馴れしくこう言った。
「ああ、そうだ」
「マキアの中じゃちょっとした噂になってるみたいだな。何人かが話してたのを聞いたが、ちょっとした手伝いから力仕事、探偵まがいのことまで広く対応してくれると評判だった。なかなか、市民からの信頼が厚いみたいじゃねえか」
「で、あんちゃん。今日の用件はなんなんだい?」
ラジオのコマーシャルかの如く長ったらしい誉め言葉に、強欲が隣から口をはさむ。ソファに座った男は、至って大真面目に、そして堂々と言い放った。
「オレが一体、何者なのかを突き止めてほしい」
突拍子もないその依頼内容に、事務所にいた全員が唖然とした。室内で各々作業をしながら話を聞いていた彼らは揃ってぴたりと手を止め、応接デスクの方を見る。憤怒が手元からボールペンを取り落としながら「……は?」と零した声を合図に、興味を示した皆はぞろぞろと部屋の中央へと集まりだした。どうやらただ事ではなさそうだった。
「何者なのか……って、どういうこと?」
スケッチブックを胸に抱えた怠惰が問うた。男の言葉に耳を澄ませながら、憤怒はフローリングで迎えを待っているボールペンを拾い上げる。
「今から大体一年くらい前かな。目を覚ましてみりゃ知らない土地でさ」
「どこかで聞いたことのある話ね」
「や、アタシのことは忘れてよう……」
「色んなところをこの足で旅してまわったが、誰もオレのことを知りゃしない。そんなこんなでマキア街に流れ着いたわけだが、その時に聞いたわけさ、七顚屋のことをな。どうやら腕利きの便利屋らしいもんだから、ここに来ればもしかしたらオレの正体を突き止めてもらえるかもしんねえという一縷の希望を抱いてだな……」
「重い重い! 話も重けりゃ荷も重いよあんちゃん!」
「何か手掛かりはあるのか」
「さっぱりだが、この街は何だか肌が馴染む感じはしてんだよな」
「都合が良いところが余計に胡散臭いな……」
憤怒は訝し気に男を見た。深刻な事態の割に本人が楽観的な部分も含め、怪しいことこの上ない、と嫉妬と顔を見比べる。じろりと睨みつけられた嫉妬は知らんふりをして視線を逸らした。彼女も記憶喪失になったなどと嘘をついて七顚屋に潜り込み、彼らを引っ掻き回した前科持ちであった。七顚屋が珍事件に関わるのはこれで二度や三度の話ではないが、だからこそ警戒するのも致し方なかった。
「行く当てもないんだ、頼むよ。一週間、七日間だけでも、ここに居させてくれないか」
「一応だ、一応訊くが、あんちゃんお金は……」
男は両手を上に上げてひらひらと振った。案の定無銭である。
「貴様、冷やかしにきたのならさっさと帰ってもらおうか。我々も暇ではない」
「でも、本当だとしたら、ちょっとかわいそうなのだわ。お腹も空かせてるんじゃないかしら……」
「うん……お客さんも、ずっと居座るつもりはないみたいだし……一週間で、出てくんだよね……?」
受け入れには否定的な憤怒に、どうも見過ごせない様子の暴食と怠惰が心配の声を上げた。二人の境遇を思えば彼に感情移入してしまうのも理解はできるが、こちらとて厳しい生活をしているのだ。そう易々と受け入れるわけにはいかない。
……が、流石の憤怒もこの二人が相手では強く言い返せない。彼らの眼差しに根負けして、とうとう口を開いた。
「本当に、一週間で出ていくんだな?」
「トーゼンだ。七日経って駄目なら諦めるさ」
「……仕方あるまい。その間、きっちり宿泊代分の雑用はしてもらう」
「やったぜ! ありがとさん。掃除洗濯炊事に戦闘、何でも任せてくれ!」
無事滞在が認められた男の前に、色欲が書類一式を差し出す。調査に分類される依頼の際に確認・記入してもらう用紙であったが、身元不明のこの男の前では殆ど意味を為さない、形式的なものだった。彼は読んだか読んでいないのか定かではない速度で頁を捲り、一番下の契約書に躊躇なく血判のみを押した。当然のように名前は空欄だった。
憤怒は紙束を受け取ると席を立つ。
「嫉妬。空き室があったろう、そこに泊める。案内してやれ」
「は~い!」
厄介者を厄介者に押しつけた憤怒は、どこか楽し気に部屋を出ていく二人を見送り、今週の予定に目を通した。ここにまだ突発的な依頼も増えるだろうと思うと、やはり暇とは言えない程度には仕事が入っている。彼が宣言通りの正直者であれば、手伝ってもらえること自体はありがたいことではあった。しかし、こうも時間が限られていては彼の依頼を進めてやることは少し難しいかもしれない。そう思うと苛立ちよりも不甲斐なさが勝つ。こんな状況でも無責任に彼を招き入れてしまったのは他ならぬ己の甘さである、と憤怒は自身を責めた。
嫉妬は空き室の扉を開けて男に見せた。
「じゃーん! ここが今日からキミのお部屋だよ!」
「ありがとな。なかなかいい部屋じゃねーか」
「でしょー? 二階のお掃除はアタシ担当なんだよ~」
「こことかほら、清掃業務を承ってるとは思えないような埃が残ってて風情がある」
「うぐ」
男は窓枠の埃を拭って茶化すように言った。慌てて部屋の隅々を観察する。普段使っていないとはいえ、今回のように客を泊めることもある部屋だ。杜撰な掃除の仕方が大人たちにバレれば、また怒られるに違いない。
「ところでさ」
屈んで部屋の角を凝視する彼女の背に向けて、男が切り出した。
「さっきの強面の奴が、この家を仕切ってんのか?」
「え? うーん……憤怒さんは沢山仕事はしてくれるけど、そーゆーわけでもないよ?」
「じゃあ、あのしっかりした彼女か? 狐みたいなのもいたな」
「色欲さんや強欲くんも昔っからいるみたいだけど、違うよ。なんていうの、そう……リーダー? みたいなのって、多分七顚屋にいないんじゃないかなあ」
そう答えながら、確かにリーダーのいないお店というのも不自然だな、と嫉妬は違和感を覚えた。この家には、鶴の一声を上げてくれるような者がいない。とはいえ、上下関係もなく並べて一列であるからこそ噛みあっている側面もあるのだろう。誰かが権力を振り回しているような堅苦しい組織なら、嫉妬はとうに出ていっているに違いなかった。
「そうかそうか、アットホームな職場ってやつだな」
「あ! なんかそれよくないやつって聞いたことある!」
「いやまあ、そういう意味では言ってねえけど」
苦笑する男に、嫉妬が問うた。
「そうそう、そういえば、キミのこと何て呼べばいい?」
「なんでも構やしねえよ、好きに呼んでくれ」
「うーん……じゃあ今日からキミはナナシさんね!」
「思ったよりそのまんまだったな」
「よし! ナナシさん、荷物置いて。これから七顚屋のお手伝いしてもらうんだから、早速このお家を案内しちゃうよ~!」
元気に部屋を飛び出していく嫉妬の後を追って、男はその部屋を後にした。