#9 REMEMBER YOU.


(二)

「さて、と」
 色欲は、戸棚から運び出した紙の山を机に広げ、埃を払うように手を叩いた。予め片づけておいた机上は、資料という資料が埋め尽くしてすっかり見えなくなっていた。乗り切らない分は隣の強欲の机に侵食している。これで全てというわけではないが、七顚屋の歴史を見ているようで、壮観だった。
 その様子を、男が後ろから覗き込む。
「これは?」
 尋ねる男に、にっこりと笑みを返した。
「今日は少し時間がありますので、以前からやっておきたかったことをやろうと思いまして。これまでの紙資料のデジタルアーカイブ化を行います」
「デジ……何だって?」
「つまり、紙の情報を電子機器でも閲覧出来るデータに変換するのです。これをすることで、顧客リストの一括管理が可能になったり、過去の類似案件や関連情報が検索できるので、業務の効率化に繋がりますわ」
「なるほどな。で、オレは何を手伝えばいい?」
 彼女の説明に納得した様子の男は、早速補助を買って出た。元々彼に仕事を与えるつもりで始めた作業だったから、話が早くて助かる。その気であれば、と業務用のスキャナーを起動させれば、大仰な機械音が鳴り始めた。
「こちらの資料を、片っ端からこれに挟んでスキャンしていただければ。後は、データの編集を私が行います」
「……なかなか気の遠くなりそうな作業だな」
 騒音に搔き消されないよう大きな声で伝える色欲とは反対に、男の声は萎んでいった。

 ファイリングされた顧客情報。契約書類、回収したアンケート用紙。調査にあたってかき集めた資料に、報告書。そして毎日、自身がストックしてきた新聞。それらを男がスキャナーにかけ、送られてきたデータのテキスト化を行いながら適切な場所に保存していく。難しいことは何一つしていないが、作業としては淡泊すぎるだろうか。ちらと男のほうを見れば、不満げな顔一つせずに手を動かしている様子が目に入った。杞憂かもしれないが、初日から押し付けるには少し退屈だったのではないか、と色欲は心配していた。
 一方で、画面に次々と表示されていくデータを見て、色欲はこれまでの生活を懐古していた。「ちょっと。今日の飯、まさかこれだけ?」という強欲の文句が飛んできたのは、確か冬だったか。少ない収入を切り詰めた結果、卵を一つ出しただけのあの日の夕飯は本当に酷だった、と今でも思う。それくらい、手探りで進めてきた店だった。それでも諦めずに客引きをし、また時には危険な仕事にも手を出したりして、努力してきた。その甲斐あって、この数年で仕事の幅もぐっと広がり、引き受けられる依頼が増えるごとに街での認知度も上がってきたのだ。結果、各々が趣味への投資をする余裕が出てくる程度には良い暮らしができているのだから、これを成功と言わずして何とするだろうか。
 半年ほど前までのデータをまとめきったところで時計に目をやれば、そろそろおやつ時という時間だった。丁度目も痛み始めてきた頃だ。伸びをしながら立ち上がり、男に声をかける。
「少し、休憩にしましょう。お飲み物、淹れてきますね」
「わかった」
 手を止め、ソファに腰掛ける男を置いて色欲はキッチンへ下がった。程なくして、二つのカップと共にいくつかの菓子を載せた盆を持って再び現われる。
「お待たせ致しました」
「ありがとう」
 男の前にソーサーを置き、自らも対面の席についた。カップに口をつけながら、ふと前を見る。男が腰掛けている席はいつもだと店側の人間が座る方で、本来ならば色欲が座っている場所が客側だった。が、なんというか、足を組んで悠然と珈琲を飲む目の前の彼はやけに様になっている。もしかすると、男の正体は見た目のわりに良い立場なのかもしれない。
 男が珈琲を啜る。ふと、彼の表情が固まった。カップを口から離して、中を覗き込み、驚いたような表情を浮かべている。それを見逃さなかった色欲が、声をかけた。
「……すみません、お口に合いませんでしたか」
 慌てて顔を上げた男が弁解する。
「いや、寧ろ逆だよ。聞きもしないで、よくオレの好きな味にドンピシャで当ててきたなと思って。結構入れただろ、ミルクと砂糖」
 その言葉にはっとして立ち上がる。男のカップを覗き見た。二人のカップの中のそれは、普通出すはずのそれとは全く色が違う。
「申し訳ございません……! いえ、これで良いのであれば幸いなんですが。最近、気を抜いてしまうと、誰も飲まないほど甘くした珈琲を淹れてしまうことがあって。疲れているのかしら」
 まず飛び出したのは謝罪の言葉だった。ああ、またやらかしたらしい、と自分の情けなさに驚いて口元を手で押さえる。
 言い訳をするのは好まないが、わざとではないのは本当だったので正直に話す。初めに気づいたのは、去年の冬も終わりかけの頃。皆で食卓を囲もうとして、何故か用意されている七枚のプレート。これが一度で済めばよかったものの、似たような失敗が二度、三度と重なるたびに仲間から心配する声がかけられるようになっていった。今回の珈琲もそうだ。兎に角、色欲の行動には、まるで此処にいない誰かの為のようなものが現われることがあった。
「オレはてっきり、お前が読心術でも使えるのかと思ったけど。そういうことなら、ちょっと休んだ方がいいかもな。まあ、暫くはそれ全部飲む奴が目の前にいるから安心しろ」
 もしかして運命だったりしてな、なんて軽口を叩きながら男が笑うので、つられて色欲も小さく笑いながら腰を下ろす。有象無象から幾度となく聞かされてきた歯の浮いた台詞だったが、不思議と不快感はなかった。都合の良い偶然に、あながち間違いではないかもしれないと思う。
「ま、冗談はさておいて。こんな感じで言い寄る男が後を耐えなくて、お前は苦労してそうだな」
「ふふ、お陰様で。昔はそういうのをとっかえひっかえして遊んでいたけれど、今はもうきっぱりお断りするようにしていますの」
「どうして?」
「私が欲しかったのは、恋ではなく愛だったから、です」
 初対面の男に、馬鹿正直に話すことも無かったかしら。口に出してから、少し後悔する。いつもなら適当にはぐらかすような会話だったが、しかしこれもまた運命だから、ということにしておけば聞こえはいいだろうかと雑な口実をつける。
「恋には嫌というほど傷つけられましたから」
「じゃあ、愛を探そうとは思わないのか」
「私は、正しい愛の形を知らないから。こんな風に生まれてきたからには、幸せを享受する資格は端からないの」
 この身一つで生きていくために、老若男女問わず様々な人を相手にしてきた。それでも心に穴は空いたままで、それを埋める方法は違うのだと気づいたのはここ数年のことだった。愛する人の体温。左手薬指の結婚指輪。庭付きの小さな一軒家。腕に抱く小さな命。慎ましやかな暮らし。飽きるほど見てきたのは、そういう夢だと思い出した。
 その上で、私がそのような暮らしを手にすることは二度とない、と色欲は確信している。それは自身の中での戒め、或いは誓いでもあった。正しい家族の在り方がわからないのに、正しく愛を育める自信はない。愛情の交換には、それなりの責任が生じる、というのが彼女の持論だった。そして、その背負い方を彼女は知らない。故に、娘は齢二十と少しの若さで既に結ばれることを放棄した。
 それでも現状に不満は無かったし、未来を不安には思わない。今の私は、心から笑えている。紛れもなく、七顚屋のお陰だった。
「それに、ここは……私が欲しかったものの形と、ほとんど同じ気がしているから。こうして、毎日皆と顔を合わせているだけで、満足なんです」
 自身が生まれる原因となった、そして母の心を壊した父に、復讐がしたいと願う毎日だった。今でもその意志は、炎は、消えていない。ただ、一つだけ変わったのは、その願いを果たすことができた暁には自分の腹も切ってしまおうという希死念慮を捨てることができたという点だった。事務所内を眺める。この家にも随分と物が増えた。これの面倒を見るのは私の役目だ、勝手に出ていくわけにはいかない。
 男は菓子に手を伸ばした。敢えてフランクな雑談という体を崩さずに、もう一つだけ質問を試みる。
「もし、自分が本気で愛したいと思える相手が現われたらどうしたい?」
 色欲は思考した。が、不思議と「したい」ことへの回答は湧いてこなかった。
 私は多分、それを「した」ことがあったから。
「献身」
 喉からそんな言葉を発する。声に出して、なんだかしっくりくるような感覚があった。唇に触れて、考える。私はきっと、誰かに献身したことがあった。誰かの背中をひたすらに追い続けた、そんな日々があった筈なのだ。だというのに、いくら記憶の引き出しを開けたところでその相手は顔を見せなかった。
 ならば、己がすべきことはただ一つである。
「恐らく、貴方は私もいつかこの家を出たいのではないかという意図で今の質問をされたのでしょうが……残念ながらそれは違いますわ」
 男が置いたカップを盆の上に載せ、色欲は立ち上がる。ティーセットを下げる間際、目を細めてこう宣言した。
「此処で、待ちます。その人が現われることを。きっと誰よりも私が一番、信じていますから」
 色欲は背を向けて事務室を出た。彼女の言葉を、男は咀嚼するように目を閉じて相槌を打った。