#9 REMEMBER YOU.


(六)

 今日の朝食も美味かった。半熟の卵とよく焼けたベーコンが乗ったトーストは、シンプルではあるが男の腹を満足させた。二階への階段を上り、洗面所へ向かおうと廊下を通りかかる。
 そして、完全に気を抜いていた男は、壁越しに凄まじい物音を聞いて思わず肩を跳ね上げた。
 口を突いて出た間抜けな声が誰にも聞かれていないか、辺りを見回した後、左手に立ち並ぶ部屋を見る。音の発生源は男子棟の一番奥、怠惰の部屋であることは明らかだ。彼は今日も食卓にいなかった。いつもの如く、寝坊してベッドから落ちた際に何かを引っ掛けたに違いなかった。
 放っておいても仕方がない。ドアノブを回し、室内を覗く。
「おいおい、大丈夫か」
「うん……ごめん、大丈夫……じゃない、かも」
 扉の先には、片づけが行き届いていない部屋とその中央、ベッドと巨大なカンバスにサンドイッチにされたまま呻く怠惰の姿があった。部屋に散らばる服や紙や絵具やらを踏まないよう慎重に足を運びながら、挟まって動けない怠惰の元へ近づいた。
「お前ホント気を付けろよ。家にいて怪我は洒落になんねーぞ、と」
 ゆっくりと倒れたカンバスを持ち上げる。想定よりも重く感じるそれを壁に立てかけてやり、怠惰を起こす。そうして息をついた男は、カンバスを見上げ、それを目にした途端口を開けたまま動けなくなった。
 青がよく冴える、空と街の絵だった。
「……これ、お前が描いたのか」
「え? ……あ、うん、そうだよ。趣味で、ちまちま……お小遣いためて、画材とか、ちょっとずつ揃えながら」
 くしゃくしゃによれたタオルケットを畳みながら、怠惰は答える。背丈ほど大きな画面に大きく配置された青空と雲は、突き抜けるような高さを感じさせた。閉じ切ったこの室内では空気は停滞したままの筈なのに、風が強く吹いたかのように錯覚する。単なる風景画ではないことを知るには、素人にはこれで十分だった。この絵には、絵具だけじゃなく、彼の体験が筆に乗っている。
「今日のシロツメさんの用事っていうのもね、おつかいは勿論なんだけど……頼んだイーゼルをとりに行くためでもあって。あそこには、何でも集まるから……」
 いつの間にか服を着替えていた怠惰が、ベッドから下りる。男が細心の注意を払って避けてきた床のそれらを、何の躊躇いもなく踏みつけながら彼は出口へと近づく。
「君も、行くんだよね……? ちょっと、待ってね。支度、するから……」
 振り向きざま、ふあ、と大きな欠伸を一つしながら、怠惰は部屋の外に出ていった。

 シロツメ堂は、七顚屋から少し離れてマキア自治区の中心部近くの場所に位置している。陽の当たらない細道を通り抜けた先に、ぽつりと構えるささやかな店。蔦に覆われたその建物こそ、虚飾と憂鬱の営むジャンクショップであった。
 怠惰はガタついたドアを引く。ドアベルの可愛らしい音を掻き消し、代わりに蝶番の軋む大きな声が客の入りを伝えた。それに続くように「こんにちは……」と怠惰はあまり通らない声で店員に挨拶を試みる。
 商品を陳列していたらしい少女――憂鬱は、彼女の友人が発したか細いその声を捉えた。
「あ、怠惰くん。こんにちは。と、そちらの……」
 憂鬱は怠惰の隣に立つ男の顔を見て、首を傾げる。見覚えのない人だ。辺鄙な場所にある店なので常連以外が来る、ということ自体珍しいが、それよりも怠惰が七顚屋以外の人をここへ連れてきたことへの驚きがあった。
 少女の視線に気がつき、男は片手を上げて挨拶をする。
「こりゃどうも。最近七顚屋で世話になってるんだ。名前が無いから皆ナナシって呼んでる」
「ナナシさん、ですか! はじめまして、私は憂鬱です。よろしくお願いしますね」
 深々としたお辞儀と共に、被っていたパーカーのフードが頭から外れる。それを直さないまま、彼女は小走りに奥へと引っ込んでいった。
「えっと、例のスタンドと、あとはいつものスクラップですよね。取り置いてたの、奥から出してくるので、そこの席でちょっとだけ待っていてもらえると!」
 言われるがまま、男と並んでカウンターの椅子に座ろうと手をかける。少し背の高いそれにもたつきながら腰をかけると、調理スペースがよく見えた。しかし、飲食を提供していたであろう道具たちはわずかに埃を被っており、使用された形跡がないように思える。
「本当に色んなものが置いてあるな」
「そうだね。どこから仕入れてるのかは、よくわかんないけど……」
 怠惰は憂鬱の後ろ姿を目で追いつつ、店内を見回した。衣服に雑貨といった可愛らしいものから、廃材や大小様々のジャンクパーツまで、統一感のない商品たちが身を寄せ合っている。雑然としているようで不思議なつり合いがとれているのは、所々に飾られている観葉植物や花々の効果だろうか。隠れ家的な雰囲気で居心地が良い。
 第二の目的を忘れかけていたところで、男に肩を小突かれる。そうだそうだ、と頭を振って、商品を抱え姿を現した憂鬱の名前を呼んだ。
「あ、あとね。ちょっと、きょしょくさんに会わせてもらうことって、できるかな……?」
「虚飾さんですか?」
 憂鬱はその名を復唱する。大きな手袋で荷物を抱えたまま、睫毛が少し伏せた。その感情の機微を、怠惰と男は確かに捉えた。気にかかることでもあるのか? 上体を反らして怠惰の肩越しに男が問いかける。
「虚飾が、どうかしたのか」
「あの、ちょっと言いづらいんですけど、最近調子が良くないみたいで……」
「呼んだかい」
「えっ」
 憂鬱の頭上から声。物憂げに話す彼女の背後、コツ、と靴音を響かせて立っていたのは、すらりとした長身の青年。やや芝居じみた手つきで外されたペストマスクの下から、虚飾が微笑を覗かせた。憂鬱が振り返りながら数歩隣へと避ける。
 怠惰も虚飾と顔を合わせるのは久しぶりだった。が、最後に会った時からも然程顔色に変化がないように見えるのは、彼が言うところの「既に死んでいる」からなのか、それとも自分が他人の変化に疎いのか。ただ、優しい彼のことだから、多少調子が悪くともそれを表面に出さない程度の無理をすることは想像に難くない。
「やあ、ライラックの少年。と、隣のあんたは……そうだな。リアトリスなんかでどうだろう。お初にお目にかかるね」
 怠惰と男の顔を順に見ながら、虚飾が挨拶らしき言葉を並べる。憂鬱が隣で「向上心、あるいは燃える思いですね」と相槌を打った。脈絡のない単語が飛んできたことに対して男が間の抜けた表情をしているので、怠惰はそっと「虚飾さんは、人をお花に例えるのが好きなんだよ」と耳打ちした。変な趣味だな、と苦笑いされたが、それには苦笑で返すほかない。実際、ちょっと変わった人……というか、変わったふりをしている人なのだ。
 男が咳払いをして切り替える。
「よくわかんねえが、オレは憤怒に紹介されてきたんだ。名前はない。お前と是非話がしたいんだが」
「勿論。何せ、俺は喋ることが三度の飯より好きでね。いくらでも付き合うさ」
 小声で「また嘘吐いてる」と、憂鬱が零したのを怠惰の耳が拾った。その表情には心配の色はなく、隣人の冗談を受け取った時のそれだとわかったので、怠惰は安心した。
 虚飾が男に右手を差し出す。今現在彼が持っている、唯一の手だ。
「改めて、虚飾という。よろしく」
 カウンターの作業場側へ回った虚飾は、暫く男の話を聞きながら、グラスにジュースを注いだ。怠惰の目の前に、ことりと音を立てて白い飲み物が運ばれる。注ぎたての炭酸の泡が弾ける音がまだ残っている。
「なるほど、事情は凡そ理解した。あんたも気の毒だな」
「まあな。お前も調子が良くないんだって? 何か病気でもしてんのか」
「病気……まあ、そんなところだ。不治の病というやつだよ。直に迎えが来る」
 虚飾は自身の寿命の限界が近いことを、病であると表現した。残された時間が僅かだから、調子が悪いのだろう。動揺する怠惰に反して、それを話す本人は至って落ち着いている。互いに憐れむような会話が、少しいたたまれない。憂鬱も先程新しく入った客の相手をしているし、居場所が無いので、会話に参加しようと試みた。
「どうしても、ダメなの……? 何か、他に方法は……」
 できればその返事は見たくなかったが、怠惰の問いに虚飾は首を横に振った。
「今までこの街で暮らせていたのも原罪の職権乱用のお陰みたいなものだし。俺だけが、輪廻というか、世の理からずっと外れたままでいるのは、狡いからね。俺も改めて自分が死んだことを認められたし、あとはこの身が朽ちていくのを待つだけさ」
 死を認めるとはどんな気持ちだろう。原罪を前に、声を震わせていた彼の姿を思い出す。きっと不安も悔いもある筈で、それでもそれら全てを飲み込んで前に進むことを決めたに違いない。ここに至るまでの葛藤は、自分には計れない。そう思うのは怠惰だけではないようで、隣で肘をつく男も伏し目がちにグラスを見ている。
 すっかり暗くなってしまった場に、虚飾の指がカウンターをノックする音が響いた。
「過去に置いていかれる死人の話より前途ある若者の課題解決が最優先だ。で、さっきの話によればあんたと俺がよく似た戦い方をするということだったが……ん、待て」
「どうかしたのか?」
 カウンターに身を乗り出した虚飾は、何かを目にして瞠目した。視線は男の方に向かっている。彼が指さした先を見れば、示しているのはどうやら彼の持つ刀のことらしい。
「腰に下げているそれ。あんたの得物で間違いないか」
「そうだけど」
「その刀。ちょっとよく見せてくれないか」
 ああ、と男が鞘ごと刀を手渡した。受け取ったそれを、虚飾がまじまじと見ている。裏返したり抜いたりしながら、「素晴らしい」だとか「やっぱりだ」などと、度々感嘆の声を上げていた。
「どうしたの……?」
「あ、うん、悪いね。すっかり見入ってしまったようだ」
 数十秒間じっくりとそれを観察していた虚飾は、怠惰のかけた声で我に返った。顔を上げた虚飾は、自分の懐からあるものを取り出しカウンターにそっと置いた。男と怠惰、そして接客を終えた憂鬱も何事かと近寄り皆でそれを覗き込む。
「この刀、虚飾さんのとそっくりですよ!」
「まるでおそろい、みたいな……」
「ああ、全く同じだな」
 鞘の意匠から刃の形まで、色違いだがまるきり同じものがそこに並んでいた。その価値こそ怠惰にはわからなかったが、これで一つはっきりすることがある。
「模造刀か贋作かとも思ったが、正真正銘本物だ。色も重さも問題ない、銘の刻み方もしっかり一致している。これはイオ村の鍛冶師の作品で間違いない。あんた、これをどこで手に入れた」
「いや、これはずっとオレのものだ」
「ということは……」
 憂鬱と顔を見合わせた。所持品の出どころがわかったということは、そこが彼に関係する地である可能性が高いということ。つまりだ。
「イオを尋ねれば何か手がかりが得られるかもしれないな。待ってくれ、地図を書く」
 急展開に珍しく虚飾も興奮した様子で、紙をとりに奥の部屋へ引っ込んでいった。
 五日間、全く進展の無かった依頼にようやく光明が差したようで、怠惰は自分のことのように嬉しくなり笑顔が綻びる。帰る場所がない寂しさを知っているからこそ、少しでも彼の居場所を見つける手助けがしたかった。
 彼も嬉しいだろうかと、男の肩に手を置く。
「ナナシさん。もうすぐ、帰れるかもしれないね」
「……ああ、着実に近づいてるな」
 そう言った男の横顔は、確かに自分と同じ様に微笑を浮かべている筈なのに、どこか似つかわしくない物寂しさを孕んでいた。

 案外会話が盛り上がり、店を出る頃にはすっかり陽も落ちる時刻になっていた。ビルの隙間から覗く夕陽が眩しくて目を細める。天を仰げば空は紫に染まり始めていた。もうすぐ、星が見える頃だ。
「新しい手がかりが見つかって、良かったねえ」
「ああ! 丁度明日で約束の七日目だったしな。これはでっけえ収穫だよ。何せ次に向かう場所ができた、ありがとな」
「そっか……明日で、お別れになっちゃうんだね。ちょっと、寂しいかも」
「寂しがってくれる奴ができただけでも、ここにきた甲斐があったよ」
 先を行く男の歩幅は自分のそれよりも大きい。彼の言葉を反芻しながら、気持ち早足で彼の背中を追う。
 本当は彼もこのまま七顚屋にいればいいのではないかと、怠惰はそう考えていた。もしもこのまま行く当てが見つかりそうにないのであれば、ここに留まって気の済むまで共同生活を送ればいい。皆、君のことを気に入っているし、君だってずっと一人旅をするのは辛いはずだと。それを打ち明けたのはシロツメに向かう道中でのことだ。しかしその誘いはやんわりと断られてしまった。「そんなこと言って、同じようなやつを次から次へと受け入れたら、あの家がもたないだろ」と反論されては返す言葉もない。
 男がイーゼルを抱え直す。このイーゼルには、今朝自分を下敷きにしたあの空の絵を立てかける予定だった。荷物を持ち替えようと彼が一瞬立ち止まった間に追いついて隣に並び、再び話しかける。
「朝、見せた絵……覚えてる?」
「ああ、あの空が綺麗なやつな」
「あれはね、僕が実際に見た景色なんだ」
 どおりでな、と返事が返ってくる。何か彼の中で合点のいく要素があったらしい。表現として自分の想いが伝わるものが創れているのであれば、これ以上に嬉しいことはないだろうと思う。
 が、褒められるためにあの絵を引き合いに出したわけではなかった。
「……でも、どうしても、思い出せないんだ。いつ、あの空を見たのか。誰が、見せてくれたのか。景色だけは忘れたくなくて、ああやって描き残しているけれど、いくら塗り重ねたってあの時のこと、何一つ思い出せないんだ」
 スリッパのつま先が小石を蹴とばして、側溝に落とす。男の反応を見るつもりはなかった。ただ、他人である誰かに燻っていた感情を吐き出したいだけだった。他の皆の前では、ずっと言えなかった独り言を、聞いてほしかった。
「多分ね、僕だけじゃないよ。皆、口にはしてないけど、お互いわかってるんだ。僕たちは、とても大きな忘れ物をしてきてる」
 今、彼はどんな顔でこの話を聞いているんだろう。この目で確かめる勇気はなかったが、その代わりに男は何も発さなかった。それでいい、と思う。急にこんな話を打ち明けられたって、戸惑うに決まっているのだから。
 多分、七顚屋に残ってほしいと言った本当の理由が忘れ物の穴埋めなのかもしれないってことも、とうにバレている。沈黙が、さっぱりとした赦しと緩やかな否定の証だった。わがままな願いをどうか見逃してほしいと、心の中でひっそりと乞うた。