#8 PRIDE IS PRIDE
荘厳さの欠片もない、錆び付いた鉄の扉。傲慢は躊躇いなくドアノブに手をかけ、その男がいるであろう空間へと足を踏み入れた。
「よくきたね、傲慢――いや、紅蓮君」
傲慢を迎えたのは、やはり頭からつま先まで、白がやけに印象的な、長身の男だった。電波で垂れ流されていた映像の中の、或いは微かに残る記憶と同じ、紛れもない『原罪』の姿がそこにある。背を向けていた彼が白いローブを翻して、扉を開け放つ傲慢へと振り返った。
傲慢は原罪の顔を見るなり、不快だ、と思った。まるで己が慈愛に満ちた人間だと声高に叫んでいるかのような澄ました笑み。こちらの全てを見透かすような瞳。広げられた彼の掌の上に、立たされている。露骨に態度に出すことこそしなかったが、傲慢は笑顔を引き攣らせた。
「思っていたよりも、上品な入場をするんだね。もっと扉を蹴破るだとか、窓ガラスを割って入ってくるくらいの、大胆なアクションを期待していたよ」
「生憎、不必要にモノ壊すほど行儀悪くはねえんだわ。オレのことはさておき、一人じゃつまんねえだろうと思ってな。来てやったぜ」
「それはありがたい。丁度、紅蓮君は特等席に招待するべきだったかと後悔していたところだったんだ。君が思っているよりずっと、私は君のことを気に入っている。王の器を持つ少年には是非、上からの景色を見てもらいたくてね」
「そうだなァ。何年もテメェのこと探し回ってたオレに内緒でコソコソこんなことしてやがっただなんて、王様に対して失礼にも程があるってもんよ」
傲慢は部屋の中を見回す。高層にも関わらず、エントランスホール同様に室内の至る所で植物が蔓延っていることに傲慢は違和感を覚えた。その隙間から見える全面に張られた窓ガラスの向こうでは、夜の闇の中でマキア街のネオンが煌々と輝いている。
そして最後に、原罪の背後にある奇妙な物体に目が留まった。
全長三メートルをゆうに超える白く発光するその球体は、糸のようなものを柱に張り巡らせ、その体を支えているようであった。時々、胎動しているかのように蠢いている。だが、不気味さよりも先に傲慢は何故か親近感のようなものを感じた。気を抜けば、無意識に近づいてしまいそうな引力がある。
「その後ろのは?」
「これは――そうだね、罪の繭、とでも言うべきかな」
原罪が『罪の繭』と名付けたそれにそっと手を触れる。
「この中に大罪の力を集約させて、多くの獣人たちが手にできるように育てているんだよ。これが孵化する時、私が自治区全体に描いた陣を媒介に、獣人が大罪の種を吸う。そうして力を覚醒させるというわけだ」
「オレ達みたいに、ってわけか」
傲慢は自分が『傲慢』になった日のことを思い返した。雨の中、力なく倒れ伏すしかなかった自分の前に立つ男。あの時、傲慢はただ、もう一度立ち上がる事しか頭になかった。
今になって思えば、あの時自力で立ち上がることができたからこそ、自分はイレギュラーなどと呼ばれるのだろう。もし彼の手を取っていたとしたら、と考える。他の大罪達にどのようにしたかは知らないが、原罪は傲慢にも彼の手で直接、罪の力を分け与えたかったに違いない。その所有権を、自分のところに置いておくために。
「君たちに与えたものとは少し違うけれどね。概念としての大罪を私から受け取り、力として実体のあるものにしたのは君たちの一挙一動だ。これから彼らが得るのは、その行動一つ一つが今日まで形成してきた力。君たちがゼロから得たものよりもずっと強大で、それこそ自我を蝕むほどの力だよ。――欲望はね、人に大きな力を与える。大罪とは即ち人の本性、本能だ。それを少し引き出してやれば弱きものでも忽ち強者へと成り上がる。私は哀れな獣達に、暴れるためのほんのちょっとの免罪符を与えるだけさ。力を得、本能のままに生きることを許された彼らはやがて本当の弱者である人間を駆逐する。略奪された君たちは、今度は略奪し返す捕食者となる」
「……要するに、だ。力を得たマキアの獣人たちに、人間を殺させるんだな?」
「そういうことだね」
人の話を好きで聞いてやるならともかく、一方的に聞かされることを基本的に好まない傲慢は、満足げに語る原罪の話を聞き流しながら長い後ろ髪を弄る。そうしながら、一つの問いを投げかけた。
「お前、それは一体誰のための行いだ」
一瞬、原罪が面食らったような顔をして、それから再び口を開いた。
「何度も言っているじゃないか、君たち獣人のため」
「オレは建前を聞きたいんじゃねーんだ。質問を変えるぜ。答えろよ、お前が奪われたもんは何だ」
お前は、お前自身のために恨みを晴らしたいんだろ。
原罪は、その問いを咀嚼するかのようにゆっくりと瞼を閉じてから、薄い笑みを傲慢に向けた。これまでの余裕のある表情とは違う、本心が微かに透けて見える顔だ。答えこそ聞けなかったが、それが見られただけでも傲慢は十分だった。
「……これから起こることの前では、然程も重要なことじゃないさ。僕にも黙秘権がある――おいで、君にも見せてあげよう。獣人の時代の幕開けを」
「お、何上からモノ言ってやがんだよ。オレはお断りさせてもらうぜ。何しろ――」
手にした刀を、鞘ごと向けて、こう言った。
「オレは今日、このパーティーをぶっ壊しに、ここへ来たんだからよ」
「いいね、いい。素晴らしいよ。流石、自らの手で罪を手にしただけのことはある。紅蓮君、やっぱり君は世界一の『傲慢』だ。だから私も、全力をもって君を止めよう」
パラパラと紙の捲れる音がする。原罪の手の中に収まる辞書のように分厚いその本は、ひとりでに頁を進め続け、止まった。そして彼は唇を動かし、何かを呟いた。傲慢の耳に、小さく、しかしはっきりと、その言葉が届く。
『禁断の果実の名において、七天を罰当する』
全方位から迫る奇妙な気配。悪寒が走り、傲慢はその場を即座に飛びのいた。次の瞬間、先ほどまで立っていた場所を、槍が降るかの如く大量の線が刺した。動きが止まってようやくその正体を理解する。植物だ。まるで生きているかのように自立しゆらめくその蔦たちが、先端を傲慢に向けた。
「気色悪ィよ」と零しながら、傲慢は刀身を鞘から引き抜く。次々と襲い来るそれを軽快に躱し、斬りはらう。ところが、何度切り刻んだところで地に伏したはずの蔦は修復し、再び宙を漂い始めた。
「魔法使いみたいなことしやがって」
「みたい、じゃない。魔法使いなのさ」
次の襲撃。四方八方から迫りくる葉も、斬り続けるがキリがない。視界を遮った蔓を全て斬りはらって目の前が開ければ、新たな攻撃の予兆がそこにあった。原罪が頭上に展開する魔法陣には六本の光の矢。間髪入れず射出されるそれらを初見では流石に回避しきれず、そのうちの一本が傲慢の左肩に突き刺さる。走る激痛。矢は勢いを失うことなく身体を運び、そのまま壁に打ち付ける。背中に衝撃が走ったのち、矢はひとりでに消滅した。微かに声を漏らすが、膝をつくことだけは自分が赦さない。
話にならないな。どうする? 大勢の人間を一人で相手にするのとは訳が違う。状況を俯瞰する司令塔が全てを操っているのだから。なれば、その彼を叩くことができれば済むことではあるだろう。しかし、今の状況では彼に近づくことすら難しい。視界を遮る蔦ばかりに意識を向ければ、原罪から直接魔法が飛んでくる。まさに彼方立てれば此方が立たぬ、といったところか。
とはいえ、この程度で諦める男であれば傲慢は今此処に立っていない。考えろ。思考を回らせながら、既に鞘を手放していた左手をポケットに一瞬だけ突っ込み、手元のそれを数秒弄ると再び刀を構えなおした。
「これでもなお、気は変わらないか」
「この程度で変わると嘗められてんのが心外だぜ」
ずれてきた額のゴーグルを、いっそのことと思い目の前に降ろした。褐色に染まる視界が、傲慢の脳を集中させる。そうして、再び刀を構えた。
が、今度は斬ることはせずに根元へ潜り込み、躱しながら走り抜けた。無尽蔵に伸びる蔦が傲慢を追う。スライディングをし、またある時は手をついて飛び越え、更には掴んでぶら下がり滑空する。不思議そうな顔をしながら次弾を展開する原罪。未だ近づく余裕はなく、躱すことだけに専念する。時間さえ稼げれば良かった。
室内が蔦で見えなくなる頃、ついに傲慢は振り返って部屋の中央で立ち止まる。
「どうやら、間に合いそうだな」
動かない彼を、その鉤が捉えることは遂になかった。原罪が気づく。傲慢の縦横無尽の動きにより蔓同士が絡み合い、引っ掛かってしまっていた。
それだけではない。絡まったままの植物達は、突如意識を失うかのように地に落ちる。と同時に、簡素な着信音が傲慢の左ポケットから鳴り響いた。
『色欲です。傲慢様、指示通り電波塔エントランスの植物を駆除いたしました。途中で合流した憂鬱さんにも手伝っていただき、思いのほか早く済みましたが……これで良かったのですか?』
「ああ、十分だ! ありがとな。もう好きにしてくれていいぞって伝えておいてくれ」
『承知致しました』
電話越しで仲間と悠長に会話する目の前の少年を、原罪は興味深げに眺めていた。根を絶たれては草木を生かすこともできまい。それを自分でできないからと言って、今この場にいない仲間達に任せてしまえるのは、まさにこの少年の傲慢さが故か。
傲慢は電話を切り、向き直る。
「ま、一人で戦うとは言ってねえしな」
「うむ、素晴らしい」
「と、いうわけで。後は好きにしてくれ、と」
携帯を閉じ、色欲が皆に呼びかける。
「……本当にこれだけでいいのか? 全く以て意味が分からないが」
とため息をつくのは、旧電波塔と七顚屋を二度も行き来する羽目になった憤怒だった。
事の起こりは、憤怒が傲慢を電波塔に送り届けた後に遡る。足早に姿を消した傲慢を見届けた彼は、その足で真っすぐ七顚屋に向かうことにした。バイクを走らせること数分。門の前にバイクを止め敷地内へ足を踏み入れようとすれば飛び出してきたのは色欲だった。慌てた様子の彼女はこちらを見るなりしめた、とでも言うような顔で「憤怒! 旧電波塔に今すぐ車を出して頂戴!」と詰め寄ってくる。旧電波塔、という単語に先刻のやり取りを思い出した彼はさしずめ傲慢の指示なのだろうと即座に理解したが、それにしても状況が理解できない。後ろから顔を覗かせた暴食を見つけ駆け寄るも「あにさま、おねがい」と、置いて行ったマフラーを巻かれ、感動の再会も十分にできないままバンの運転席に押し込まれたのだった。
「いや~俺っち頑張ったっしょ!」
「ほとんど、ゆうちゃんのお陰だと思うんだけど……」
「い、いえ……! そんなことないですよ。怠惰くんが提案してくれなかったら、私も気づかなかったと思うので……」
怠惰の隣で憂鬱が謙遜している。彼女が何故ここにいるのかと言えば、旧電波塔へ向かう七顚屋の一行が、一人でいるところを見つけて拾い、そのまま連れてきたのだ。どうやら同じく旧電波塔に向かった虚飾を気にしていたらしく、彼女はその誘いに同意し喜んで同行してくれた。傲慢の「電波塔下階の植物を駆除してほしい」という突拍子のない頼みにも協力してくれたのだが、そこで役に立ったのが彼女の、あらゆるものを腐敗させる能力である。
「まさか黒胆汁がちゃんと役に立つ時がくるなんて思わなかったです……元花屋としてはこれでいいのかって感じではありますが」
「無理きいてもらっちゃって、ごめんね……あんなことがあったあとなのに……」
「こちらこそ迷惑かけてすみません、気にしないでください……!」
怠惰と憂鬱の謝罪合戦が始まる一方で、暴食が憤怒のマフラーを引く。
「ごうまんさんは、上でたぶん、げんざいさんとたたかっているのよね? わたしたちも、向かったほうがいいかしら」
「そうだな。加勢までは頼まれなかったとはいえ、我々も何が起きているのかは見ておいたほうがいいだろう。どの道、好きにしろと言われている」
「虚飾のあんちゃんもいるんだろ? 案外、俺っちたちがついたころには事は全部済んでたりしてな!」
軽口を叩きながら強欲がエレベータのボタンを連打する。しかし一向に反応のない文字盤を見ながら、小首を傾げた。
「おーい、こいつ動かないんだけど」
「当然よ、こんな寂れた場所に電気なんか通ってる筈ないじゃない。歩いて上るわよ」
「正気かよ!」
天井を見上げ、明日くるかもしれない筋肉痛に思いを馳せる強欲を放って、一足先に階段へ足をかけた色欲に憤怒と暴食、怠惰と憂鬱が続いた。
ところがこの果てしない道のりを真っ先に脱落したのは怠惰であった。いつの間にか最後尾に来ていたどころか屈みこんで動けそうにない彼を強欲が引っ張り上げる。
「怠惰~、置いてくぞ」
「さ、先に、行ってて……」
こりゃだめだ、と判断した強欲は言われた通り彼を置いて先に行くことにした。その背中を眺めながら、怠惰はやっとの思いで一段、また一段と足を進める。窓の外を見れば町並みも随分小さく見えるほどになったが、まだ目的地に辿り着く気配はない。今後しばらく七顚屋の階段すらトラウマになりそうだ、と心配になりながら、それでも一人戦う友人の姿を浮かべ必死の思いで上っていった。
そうしてゆっくりではあるが着実に歩みを進めれば、仲間たちの姿が目に入る。どういうわけか皆立ち止まっているので、不思議に思いながら覗き込めば、そこに嫉妬がうずくまっていた。
使い物にならなくなった植物を鬱陶しく思ったのか、原罪が右手を払えば、蔓の山は一瞬にして燃え盛り始めた。一面の火の海は滾る傲慢の意志のようでもあれば、心の奥底に秘めた自身の怒りのようでもある、と賞味するのは原罪本人であった。その自覚があるからこそ、彼は声を荒げるのだ。
「どうしてここまでできる? 君だって人間に虐げられていたじゃないか! 彼らに復讐したいとは思わないのか、憎いとは思わないのか! 君はあの日、全ての頂点に立つことを望んだ! マジョリティさえ消してしまえば、君だって簡単に彼らを押しのけて王者になれる!」
その言葉に違和を感じた傲慢が眉根を寄せた。此度の応酬において不愉快を露わにしたのはこれが初めてだった。
「……そうだな」
不本意ながら、虐げられたのは事実だ。あの日、『傲慢』になった日、自分に敗北を与えたのは数の暴力以外の何物でもない。
「オレは、勝者でなければならない」
絶対的な力。圧倒的な支配。それをいかにして手に入れるか。それだけを考えて、生きてきた人生だった。
「オレが、王者でなければならない」
力を手にし、己が全てを統べる王となる。生を得たくば強くあれ。正を得たくば上に立て。命が尽きるか否かの瀬戸際で、そう自分に囁いたのは他でもない、己の中に巣食う『傲慢』だ。では、目指すべき『王者』とは一体何なのだろうか。漠然と胸の内にあったその答えをはっきりと目視できたのは、つい最近のことではあるが。
「でもな。お前は一つ、オレのことを勘違いしている。オレはなあ、そんなお膳立てしてもらうまでもなく、ただ一人のオレという存在であることをもって、今までも、これからも、万物の頂点に立ってンだよ!」
この世界という戦場では、自らの意志で立ったものが勝者なのだから。
「テメェのお慈悲なんて要らねえ。そんなやり方で得る王の座なんてハナからゴメンだ。オレが望んだ頂点は、王は、傲慢の在り方は、全てを平等に見下し、平等に救い、平等に罰し、平等に赦す。そしてそうできるだけの力があることを、他でもないオレ自身が信じている! ただそれだけが侵されなければ、満足だ!」
「だというのなら、その力を証明することだ!」
返事をするまでもなく、傲慢が迫る。部屋を覆う炎の中で、紅蓮色の髪が一層燃えるような赤で靡いていた。傲慢が振るおうとする刀が、燃える火の輝きを反射する。原罪も同じ様に、光を剣状に精製して、待ち構えた。
「こっち見ろや原罪ッ!」
が、しかし。全力で走ってきたかと思えば、その刀は後ろ手に放り投げられる。刃が床面と衝突し、高い音が響いた。想定外の行動に、原罪は当惑する。
少年はそのまま右手を振りかぶる。その光景に、目を奪われた。手にした剣の存在も忘れ、魅了されるように彼はその場から動くことができなかった。
「一発、オレに『殴らせろ』!!」
原罪は、確かに傲慢の左の瞳が黄金色に光るのを見た。聴覚が受け取った「殴らせろ」という抗うことのできない指令が脳の中を駆け巡り、全身の制御を奪われる。息を呑んだ。
かくも恐ろしい力を、この少年は二度も、自らの意志で発現させたというのか。
本来、罪の管理者ともいえる立場の原罪、そしてその娘である嫉妬には、大罪の能力は作用しない筈だった。確かに奪った力を、神にも等しい者すら超えるものとして、傲慢は取り戻していたのだ。
即ち、傲慢は『傲慢』そのものだった。
鈍い音が鳴り、原罪の左頬に重い衝撃が乗る。鍛え抜かれた獅子の拳から繰りだされる殴打の威力は凄まじい。殴った傲慢よりも一回りは大きなその体は宙を飛び、原罪は地に叩きつけられた。彼の手から、全てが記されたその書物が離れる。
これほどまでに激しい痛みを味わうのは、いつぶりだっただろうか。直ぐには立ち上がることはできそうになかった。地に伏したまま魔導書に手を伸ばす。息を切らした傲慢は今のところ何も仕掛けてきそうにはない。まだ、諦めるわけには。
背表紙に指が届くまであと数センチ。しかし目の前をよぎった影が、それを横からいともたやすく拾い上げてしまう。
「あんたはこれがなけりゃ何もできない。そうだろう?」
「ああ……」
磨かれた靴を履いたその人を見上げてみれば、虚飾がいた。冷たい目で一瞥すると、本を手にしたままその場を離れていく。ゲームオーバーだ。彼の言う通り、この本がなければ原罪という男は無力な一人の人間でしかなかった。
ああ、この”喧嘩”は漸く終わりを迎えたのだと、そう悟った。仰向けになる。遮られた天井の明かりの代わりに、傲慢の眼光が自分を見下ろしていた。黒と金の双眸が、真っすぐと己を捉える姿に、美しいとすら感じてしまう。
殴られた瞬間を振り返る。傲慢はあの時、何も考えることなく無我夢中でこちらに向かってきた。きっと意識してこの力を使おうとしたわけではない。それでも、『傲慢』という概念が、彼の無垢なる傲慢さに応えたのだ。この少年には、到底敵わないと思った。
「紅蓮、君は――」
「おいおい、まだ目が覚めてねえってか? オレがどうこうじゃなくてさ……その前に見なくちゃなんねえものがお前にはあんだろが」
「何、だって」
原罪がゆっくりと上体を起こす。立ち塞がっていた傲慢が横へ退き、頭を掻きながら投げ捨てた刀を拾いにいくと、その後ろから見覚えのある人影が扉を押し開けるのが見えた。
「お父さん……」
七顚屋の仲間たちに囲まれた嫉妬が、そこにいた。
足を踏み出すことを躊躇しているように見えた彼女の背を、暴食の小さな手がそっと押した。驚いたように振り返れば、優しい微笑みが向けられる。意を決したように頷くと、嫉妬は歩き出した。入れ違うように傲慢が後ろに下がる。
歩を進め、原罪の前までくると立ち止まり、屈みこむ。依然立ち上がることができずにいる原罪と、目線を合わせた。嫉妬、と呼ぼうとする。し、の形に開いた口を見て、彼女は首を横に振った。
「違うよ。アタシの名前は、嫉妬じゃない。呼んでよ……お父さんだけが知ってる、アタシの名前を、ちゃんと、呼んで」
その言葉に、初めて彼は自分のこれまでを顧みた。娘の本当の名を呼んでやるどころか、彼女の顔色をまともに窺ったことがこの数年間あっただろうか。そうしてやっと直視することができた表情はといえば、今にも泣き出しそうに歪んでいる。
母亡き今、彼女の名を呼べるのは、自分しかいないのだ。
「……ナナ」
「うん」
嫉妬が父の胸に飛び込み、原罪もまた娘を抱擁する。互いに、人の温もりを感じることができたのは母を失ったあの日以来だった。
「紅蓮君。君はさっき、僕は何を奪われたのかと訊いたね」
「え、あ、ああ。確かに言ったけど」
七顚屋の部下、そしてシロツメの二人と顔を合わせ親子の元へと近づいていた傲慢は、突然名指しされ間の抜けた声を上げた。後ろで強欲が小さく噴き出した後、「いて」と声を漏らすのが聞こえる。色欲が彼の足でも踏みつけたのだろう。
「僕はね、妻を奪われたんだよ。人間にね」
言葉の割に穏やかな表情をした原罪が顔を上げる。嫉妬は泣き腫らした顔を袖で拭うと、立ち上がって彼の隣に立った。
人間に家族を奪われた、という境遇に心当たりのある傲慢は、思わず横目で虚飾を見やった。俯きがちに視線を逸らしている。彼もまた、当時のことを思い出しているのだろう。
「名をラミアと言う。半身が蛇の、よく目立つ獣人だったから、彼女が家から出ることは滅多になかった。それなのに、だ。ある日僕が家に帰れば、娘を抱いたまま血塗れになって倒れている。この通り、ナナは助かったが妻は既に……」
「それで、人間を?」
傲慢の問いに原罪が頷く。
「こんな理不尽な世界で、獣人たちが生きなければならないという現実を受け入れられなかった。この運命は、必ず変えなければならないと。幸い、私には魔法と、それから――信じられないかもしれないが、世界を管理する権限が少しだけあった。大半は剥奪されたがね。だから、大がかりな術を一から組んで、全ての獣人と人間を巻き込んだ復讐をしようとしたんだよ。残された『獣人』という種さえ、安寧に暮らすことができれば、後はどうなろうが構わなかったのさ」
沈黙が流れる。傲慢は内心、同情する他なかった。力を持っているからこそわかる。力には、それを上回る力で対抗するのが一番簡単だ。先刻、「獣人のため」などという言を建前だと指摘したが、今となっては強ち嘘とも言いきれない。自らの身に起こった悲痛な事件を、全ての獣人の未来に重ね合わせていたのだ。
それでも。それでも、傲慢にはその選択を肯定することはできない。
「いいか。お前が思ってるほど、人間も、獣人も弱くはない。罪と理想を押し付けられるために、オレたちは、人は、いるんじゃねえんだ。この先何年、いや、何百年かかるかわかんねえけど……お前の力なんか借りなくったって、人は勝手に歩いていくよ。オレたちが、オレたちである限りな」
地べたに座り込んだままの原罪に、手を差しのべてみる。原罪はその手を数秒見つめたのち、自分の手を差し出すことはせずに、自らの力で立ち上がった。彼もまた、このどうしようもない世界の中で歩いていく決意を固めたのだろうと解釈し、傲慢は肩をすくめて苦笑した。
「ねえ、ごーまん」
「なんだ」
後ろからジャケットの裾を掴んできたのは怠惰だった。振り返り、返事をする。
「結局その……目の前の大きい、繭? みたいなのは、もう大丈夫、なのかな」
「ああそうだ。原罪、アレの始末はどうしてくれんだよ」
虚飾から落とした本を受け取った原罪の言葉が、次の瞬間その場の空気を凍り付かせる。
「すまないがね……実のところ、もう手遅れなんだ」
「は!?」
「そんなまさか」
「おい貴様、一体どうしてくれる!」
憤怒がスタスタと歩み寄り、原罪の胸倉を掴んだ。後を追いかける暴食がマフラーを引いて制止する。
「貴様が言った通りになるのであれば、人間獣人関係なく街が壊滅するぞ! 何か手立てはないのか!」
「生憎、導火線に火を付ける道具はあっても、火を消すための水は用意しなかったものでね……残念ながら、こいつはもう私の手を離れてしまっている。今に名前のない罪の数々が、依代となる体を求めて下界に蔓延するだろう」
「良い話風にまとまりそうな流れだったんに、あんちゃんも腹が決まってんなあ」
「私たちのしてきたことは、無駄だったんですか……?」
口々に騒ぐ大罪たちを見ながら、傲慢は一つの可能性に行き当たる。無表情の原罪を一瞥すると、繭に向かって歩き出した。歩きざまに拾ったばかりの刀を引き抜き、鞘を投げ捨てる。いち早く彼の行動に気が付いた虚飾が駆け寄り、肩を掴んだ。
「兄さん、何をするつもりなんだ」
「罪がばらまかれりゃ良くないことが起きるんだろ、なら話が早い。オレが全ての罪を背負えば万事解決よ」
その言葉を聞いた原罪が、焦った表情で傲慢を見る。
「それは無理だ! 紅蓮くん、それは人ひとりが背負える罪の重さじゃない、絶対に耐えきれない! 大体、罪を背負うということがどういうことなのかくらい一度通過してきた君たちならわかるだろう? 仮に成功したとして、今度こそ君はこの世界に初めからいなかった白紙の存在になるんだぞ! それでもいいというのか!」
その場の全員が傲慢を見た。傲慢以外の皆がその経験をしていた、だからこそ事の重大さがわかる。否が応でも、彼がこの数多の罪にその名を上書きされたなら――自分たちがそれでも彼の存在を覚えていられるという確証はなかった。
「あのなあ」
傲慢が額のゴーグルに手を伸ばしながら返答する。目元のそれを外せば、視界が晴れた。
「無理だとかこうなるだとか、一体そんなもん誰にわかんだよ。そーいうのはさあ、全部、オレ自身が決めることだ」
「じゃあアタシがいく! アタシが責任取るよ。だって傲慢くんには関係ない話じゃん」
嫉妬が伸ばした手を、傲慢はいつものように振り払った。そして、母が旅立ちの日に彼にしたように、ゴーグルを彼女の胸に押し付けた。困ったようにそれを受け取る嫉妬に、傲慢は言う。
「関係ないこたねえよ。オレは全ての上に立つ男だぜ? この世界の全部が関係あるといっても過言じゃねえんだわ。それに、母さんにも後始末は自分でやれって言われてんだよ」
「紅蓮君。さっき君は、僕に『誰のための行いだ』と訊いたね。君のその行いは、誰のためのものなんだ。ここにいる仲間か、獣人か、それとも人間のためか?」
原罪の問い掛けに、首を振る。
「いいや、傲慢でありたいと叫ぶ本能も抑えられないような、オレ自身のためさ」
傲慢は、これが世界中の誰にもできない仕事なのだと、勝手に決めつけていた。だからこそ、自分がやらずにはいられないのだ。己が頂点に立っていることを、示すために。
「ここは一つ信じてみろよ。オレは世界一の『傲慢』なんだろ」
固唾を呑んで見守る一同に囲まれながら、傲慢は刀を引き、繭に突き刺した。そして、果実を割るかのように斬り下ろす。
白の眩い光が辺りを包み、何も聞こえなくなった。静寂や暗闇ではなく、無そのものが支配する空間に、感覚が溶けて消えていく。なるほど、自分が自分でなくなるとはこういうことか。独り合点しながら、事が済むのを待った。自分にだって、この後どうなるかなんてことは知ったこっちゃなかった。しかし、恐れることは何もない。何故なら、オレは