#9 REMEMBER ME.


(三)

「あのさア、こんなこと手伝わせて、オレがもしサツやお上の人間だったらどうすんだよ……」
「それはね、俺っちもそう思う……」
 血に濡れた刃物を水で洗い流しながら、そういう会話をした。辛うじて月明りが照明の代役を果たす暗い部屋の中、彼らが何をしたのかは言うまでもない。七顚屋には、そういう仕事も入る。
 とはいえ、男の言う通り強欲が自身の受けた依頼に彼を同伴させる必要はどこにもなく、そこに存在するのはリスクのみであった。そもそも、今日のことは七顚屋の誰にも言っていない。皆が寝静まった後、黙って、勝手に、こっそりと、連れ出したのだ。
「でもこれで、一つはっきりしたことがあるろう」
 強欲はハンカチでナイフを拭う。刃先に刃こぼれを見つけた。帰ったら研がないとなあ、と思うとげんなりする。
「お前が考えなしの怖いもの知らずってことがか?」
「違やい! 正解はあんちゃんがこういう現場を見ても全く動じないってことが、だよ。俺っちの行為を咎めるでもなく、死体を見て腰を抜かすこともない。人が飯食ってるのを眺めてるみたいに平然としてんだ。これだけで、まあまずまともなヒトじゃないってことがわかるだろ」
「言われてみりゃあそうか」
 男がくぁ、と一つ欠伸をした。呑気なもんだ、と思う。あんな光景を見た後じゃ、目も冴え冴えするのが普通の反応というものだろう。流血沙汰に慣れているのは結構なことだが、これでは少し、面白くない。今夜強欲が彼を連れ出した理由はもう一つ、「ちょっとばかしこいつを試してやろう」という遊び心だったのだから。
 ならば、だ。いっそのこと、本当に遊んでしまえばいい。ステッキの中に刃を納めて、立ち上がる。今財布に入っている金額を思い出した。問題ない、楽しめる分は持っていた筈だ。
「なああんちゃん、今からちょっくら寄り道しねえか」
「寄り道? こんな遅いのに?」
 先刻欠伸をしたばかりの男はやや不機嫌な顔でこちらを見ている。さっさと帰って眠りたいという欲が丸出しだった。こういう反応をしてくれると、からかい甲斐もある。
「こんな時間だからこそだよ。持ってる金、倍にしてから帰んないと来た甲斐ないっしょ」
 二人は部屋を後にした。暗くて時計の文字盤は見えたものではなかったが、日付が明日を迎えるには多分もう少し時間がある。

 物珍しそうに建物を見上げる男を引き連れ、強欲はカジノの中へずかずかと進んでいった。自分たちの姿すら反射するほどに磨き上げられたフロア、これでもかというくらいに飾り付けられたシャンデリア。先程まで身を置いていた空間とは打って変わった強烈な眩しさに頭がくらくらした。自分は今、全身で非日常を浴びている。最高だ。
 カウンターに寄って強面の男に会員証を見せる。普段外でこういう顔をした人間を見かけたならばすれ違うだけで肩が竦みそうなものだが、ここでは違う。通いすぎてもはや顔見知りとなったそいつがカードを突き返す。すんなりと二人は奥に通された。
「こういうの、オレも入っていいもんなのか?」
「賭けるだけならカードはいらないからね。俺っちくらい通い詰めると色々特典もついてくるけども」
 男はきょろきょろと辺りを見回している。高い天井、一本で数億の値段がする柱、汚れ一つない赤いカーペット。装飾の一つ一つを目にするたびに、感嘆の息を漏らしている。余程このような世界とは縁が無かったのだろう、少なくとも彼が富豪の類ではないことがわかる。
 やっと彼も夜遊びに興味を示してきたろうかと嬉しくなった強欲は、換金所で意気揚々と現金をチップに替えた。「ホントならもっと高いチップを渡してやりたいとこだが、生憎今日は予算があんまりないものでね」と先輩風を吹かせながら黒のチップを数枚、男に渡してやる。今日は本気で勝ちにきたわけでもなし、戯れならばこれで十分だ。
「にしても」場内ですれ違う人々を横目に男が零した。
「こういうとこ、案外獣人でも入れるもんなんだな」
 従業員にも客にも、人間と獣人の両方がいることに驚いているのだろう。無理もない、格式高い場所は獣人が入れないことの方が多い。
「最近はそうだね、結構寛容になってきた感じはあるかな。俺っちはまだその辺のラインが微妙な時にこっちの顔で会員になっちまったから、一応こんな格好してるけども」
 そう言って自分の顔を指さす。外にいた時には生えていた筈の狐の耳と尻尾は既にどこかに放り出し、今の強欲はどこからどう見ても立派な人間の姿をとっていた。少し長い髪は後ろで括ってある。彼の化ける能力は、この街では非常に使い勝手がいい。
 因みに獣人御用達の裏カジノも街の反対方面に存在し、ここよりは質素ではあるがカジュアルに、時には危険な賭けも楽しむことができる。イカサマが横行しているのが玉に瑕で何度か彼も痛い目を見てはいるが。近いうちにリベンジに赴きたいけれども、前に一度磨って色欲に酷く怒られたためそう簡単に行かせてはくれなさそうだ。
 テーブルの並ぶ広間にたどり着き、辺りを見渡す。人の入りはそこそこだ。今なら何のゲームでも遊ぶことができるだろう。
「さ、あんちゃんは何がしたい? 好きなのを選んでいいぜ、今日は俺っちの奢りだかんな。あっでもスロットだけはダメだぞ、あんなん金を溝に捨てるのと変わんないかんね」
「好きなのを、っつってもなァ。パッと見ても違いがよくわかんねえや」
 色んな台を見て回りながら男が目を凝らしている。二人が歩く左右ではディーラーとプレイヤー達がトランプを挟んで対峙している光景が見られた。初心者にはカードゲームはどれも同じに見えるようだ。
「あれはバカラだな、二択だからとっつきやすいぜ。こっちのポーカーはルール覚えんと話にならんから今日はパスで」
「今日は、ってお前まさか明日も行くとか言わねえだろうな」
「まあまあ、家での暇つぶしくらいは付き合ってちょーだいよ」
「しょうがねえなあ」
 その時、呆れたように笑う男の耳に球の転がる軽快な音が届いた。視線を向ける。
「あれは?」
「ルーレットだよ」
 短い応酬だったが、二人の意思は一致したようだった。丁度客のいない台、彼らはその席に座った。強欲がチップをテーブルの上に置き、金額を指定してカラーチップに替える。見よう見まねで男も同じ様にそれらを交換した。ディーラーが卓上を滑らせるようにチップを動かす。それぞれの元に黄色と赤のチップが数十枚差し出された。一寸の乱れなく綺麗に積まれたその山から、強欲は一番上の一枚を手に取った。
 ベルの音が、ベットの開始を告げた。
「数字の上にこれを置きゃいいんだな」
「そうね。二点賭けとか四点賭けとか色々あるけど、とりあえず好きに置いてみな」
 そう言いながら強欲は慣れた手つきで黒の上に一枚置き、加えてコーナーベットを二か所に対して行った。「そういうのもありか」と呟きながら、男は奇数に一枚と好きに選んだ数字三つの上にチップを乗せる。暫くするとディーラーがホイールを回転させ、ボールを投げ入れる。球は勢いよく回り始めた。
「こうして、何もかも運に任せた勝負をしているときが一番生きてるって感じするよな」
「へえ?」
 軽い音を立てながら、ボールは依然回り続けている。ディーラーがテーブルを撫でるようにしてベットの終了を宣言した。二人はその球体の行方から目を離さない。
「ネタバレされたミステリ本が価値を落とすのと同じ。確定した未来とか運命っつーのは、生きてる俺っちたちを縛り付ける鎖だ」
「そういう見方もできるな」
「だろ? つまりだな、先が見えてる人生ってのは、俺っちにとっちゃ死同然なのさ。だから、わからないものを見続けていたいわけ。生きるためにね」
「理解はできるな」
 ボールが次第に勢いを失っていく。重力に従って、転げ落ちていく。ホイール上の出っ張りに球がぶつかり、その場で跳ねた。いくつかの数字の上を行き来して、最終的にボールは自身の落ち着く場所を黒の六に決めた。
「おっと幸先いいね! まずは九倍と二倍だ」
「げ、こんな置いて全部外すことあるか」
「そんなもんそんなもん、次行くよ」
 男の出したチップは全て没収され、代わりに強欲の元へと黄色のそれが帰ってくる。次のベルが鳴った。
「あんちゃんは、自分の正体、本当に知りたいか」
 強欲はチップを数枚テーブルの上に置きながら、唐突に尋ねた。再び偶数の島にチップを置こうとしていた男の手が止まる。
「え? ああ、まあそりゃ」
「それが、自分の可能性を狭める行為だとしても?」
 男からの返答はない。強欲はもう五枚、チップを上段の列に載せた。
「あんたの正体がろくなモノだって保証はどこにもない。わかった瞬間、絶望するかもしれない。後悔するかもしれない。そうなるくらいなら、一生自分が何者かわからないまま揺蕩ったって――」
 コトリ。強欲の言葉を、チップが置かれる音が遮った。
 音の鳴る方向を見る。男の手が退かれる。その下から現われたものに、強欲は目を見開いた。
 何枚にも積み重ねられたチップの塔、その下に覗く赤の七、ストレート・アップ。たった一点への、オールベット。あまりにも無謀だ。強欲はそれを一笑に付した。
「いやいや、あんちゃんもうちょっと頭使わんと」
「さっきに怖いもの知らずだとか言ったのは撤回だ。お前、案外臆病なんだな」
 男が喋り始めるのとほぼ同時に、ディーラーが再びボールを打ち出す。頭の中で、ぐるぐると何かが回り始める。
「親切心で言ってくれてんのはよくわかる。が、オレはオレを諦めねえ。失敗も成功も、積み上げた過去は全部自分のモノにして、オレは前に進む」
 ああ、そうだ。俺は臆病だ。思い出したくないのは俺自身なんだ。
「思い出って、そんなに怖いものなのか」
 なあ、頼むから、そんな目で俺を見ないでくれ。思い出してしまいそうなんだ、それを。
「そんなに、忘れたいものがあるか」
 忘れられるものなら全部忘れてしまいたいと、そう思っていた。サンとのことだってそうだ。自分が犯した罪だって。絶対、忘れたほうが楽に決まっているんだ。だから、あの日慮外に空いてしまった記憶の欠損ができたときは、運がいいと思ったのに。結局今も、無いものにすら自分は縛られてしまっている。不確定要素すらこの身を解放してくれないのなら、一体自分は何に縋ればいいって言うんだ。
 余裕気に男が笑っている。その笑顔が、糸を切った。強欲は数十年ぶりの怒りを、確かに自分の中に見た。
「一つ言っとくよ。俺は何よりも、同情が、嫌いだ」
 台の上に手が翳される直前。素早く手を滑らせる。強欲は、残りのチップを全てゼロに賭けた。視界の隅でディーラーが少し眉根を顰めたのが見える。悪い、今日だけは粗相を許してほしい、と心の中で謝った。ベットの時間の、終わりが告げられる。
 ボールの動きが少しずつ鈍くなっていく。止まるな、まだ回れ。何もかもを置いて、ずっとそのまま走り続けていてくれ、俺が自由であるために。そんな願いも空しく、球は高度をどんどん下げていく。強欲は見ていられなくなって、目を閉じた。
 カラン。ボールが止まった音がする。恐る恐る目を開けば、そいつが七の穴に、すっぽりと納まっている様子が飛び込んできた。
「ッああ~もう、全部溶かしたじゃねーかよぉ!」
「残念だったな! ま、こういう時もあるってことで」
 男が隣で大笑いしながら、三十六倍になって帰ってきたチップを受け取った。出鱈目みたいな枚数だ。強欲の愚行も無かったことになる大勝ちだった。
 きっと、俺はこの日の賭けを忘れないだろう、と振り返る。人生は後悔の連続だ。向こう数百年、これからも引きずって歩いていかなければならない記憶とかいう大荷物を、また一つ増やしてしまったようだった。