#9 REMEMBER YOU.


(五)

 この時期の早朝の空気は、まだ冷たい。肌を撫ぜる十一度が憤怒の脳を覚醒させる。
 芝生の敷かれた七顚屋の裏庭で、憤怒は腕の筋肉を伸ばしストレッチを行っていた。食事前、定められた朝のルーティン。また、彼にとっては数少ない一人の時間でもある。誰も介入することのない、無駄が最小限まで削られた思考。神経質な憤怒が、自身の怒りと向き合う必要のないひと時だ。思い返せば、幼少の頃から既に自分は一人で過ごすことを好んでいたように思う。
 そして彼は、こういう安寧の時間というのは割と突然に奪われていくものであるということを知っている。
 彼の背後で、裏口の扉が開く音がした。来訪者の正体は、声を聞くまでもない。
「やあやあ、あにさまさん。朝からご苦労さまで」
「その呼び方を許した覚えはないぞ」
 咳ばらいをして振り返れば、無名の男がそこにいた。澄んだ声とよく開かれた眼から、元々朝に強いであろうことが伺える。生活習慣が良いという点では好感が持てたが、如何せん余計な口をきき尊大な態度をとることでこちらの神経を逆撫でするのがこの男だった。
 ポーチに座り込み、男が誠意の欠片も感じられない謝罪を投げる。
「悪い悪い。いつも一人で?」
「いや、そういうわけでは……」
 その後の問いに反射的に応答しようとして、憤怒は言葉を詰まらせた。自分が口走った答えに引っ掛かりを覚えたからだった。そういうわけでは、なんだ? その先に続く言葉を飲み込み、もう一度答え直す。
「……ああ、大体はそうだ。貴様さえ来なければ今日も一人だった。そも、この時間から起きているのが色欲くらいのものだからな」
「じゃあ良かったな! オレが来たお陰で退屈せずに済むわけだ」
「貴様と馴れ合うことを拒否すると言っているのだ、わざわざ訂正させるな」
 カラカラと笑う男を睨みつけながらも、憤怒は昨日のことを思い出して付け加えた。
「だが何だ、貴様には一つ言っておくべきことがあるな。昨日の件、感謝する」
「昨日? ……あー、暴食との留守番のことか」
 昨日は皆忙しく、暴食と男に七顚屋をほぼ一日預けることとなった。その間に二人が夕食を作っていたらしいのだが、これがまた見た目は不格好ながらも好評だった。料理の顛末を語り、自信が持てたのだとにこやかに笑う彼女の顔は記憶に新しい。
「夕食を作ると息巻いて失敗した自分を否定せず、最後まで面倒を見てくれたのだとしきりに喜んでいた。礼を言う」
「ま、何でも任せろつったのはオレだしな。居候の対価として当然のことをしたまでよ」
「それもそうか」
 さっぱりとした返事を受け流しつつ、憤怒は倉庫の鍵をひねる。扉を開ければ、暗い物置の中、すぐ目の前に存在感のあるサンドバッグが現われた。出し入れがしやすいように入口付近に置かれたそれを外へ引っ張り出して、適当な場所に置く。
 こちらに向けられた視線に居心地の悪さを感じながら、砂の詰まった袋に触り距離感を今一度確認する。そうして数歩下がり、腕を突き出し二、三度拳を打ち込んだ。速度の乗った正拳がサンドバッグを揺らし、チェーンが音を立てる。
「それも、ずっと一人でやってんのか」
「そうだが、何か悪いか」
 憤怒の様子を眺めていた男は、背を向けたままの返事を受け取ると、徐に立ち上がった。彼の動いた気配を感じ取り、ようやく憤怒も振り返る。いい加減飽きて部屋にでも戻るのだろうかと思ったが、その期待に反し男はこちらに近づいてきた。
「よし、ならオレが相手をしよう」
 思わぬ提案に憤怒の目が開く。
「的が動かないんじゃ練習になんねえだろ」
「数発殴って伸びるような的こそ練習にならないが」
「おいおい、オレがそんなに柔く見えるか? 客だから遠慮するってんなら他の雑用もやめにしちまうぞ」
 自分より一回りも小柄な男に手合わせの相手を頼むというのも、いささか気が引ける。だが、いつもよりも喜色をあらわにする彼の様子を見て、これは憤怒のためではなく自分が楽しみたいが故に言い出したのだろうと気づく。
 なれば、わがままの一つくらいは聞いてやらぬこともない。鍛錬の相手がいること自体は、願ったり叶ったりなのだから。
「いいだろう、やってみろ。ただし怪我をしても責任はとらん」
「そこはお願いします、だろ」
 お世辞にも広いとは言い難い庭の中央、二人の男が対峙する。どこか懐かしさを覚える景色に、長い息を吐いた。ノスタルジーの起因は、今追及したところで答えが出るはずもない。雑念を払った先、交差する視線。男が右足を引いた。

 飛んでくる拳を左腕で払う。右手で相手の身体を捕らえようとするも、次の瞬間男の姿が視界から消えた。刹那の動揺の後、下方から伸びるような蹴りが現われ、咄嗟に上体を反らせた。片手を地につけ、起き上がるついでに低くなった相手の姿勢に合わせて脚を回す。それも難なく避けられ、数歩の距離をとったところで憤怒は息をつき緊張を解いた。
「……見縊っていたようだ。先の発言、取り消そう」
「お前も腕を上げたな。ちょっと休もうぜ」
 男も構えを解き、伸びをしながら壁沿いに取り付けられた水道に近づく。蛇口を上向きにしてから栓を捻り、勢いよく飛び出した冷たい水にそのまま口をつけていた。
「流石にこの街の水質までも保障はできんぞ」
「だいじょーぶ、自己責任だよ」
 憤怒は階段に腰をかけながら、ドアノブに引っ掛けていたタオルで首の汗を拭った。頬杖をつきながら、今しがた終えた数分間の手合いを振り返る。冷えていく身体に反して、自分が高揚していることに気が付いた。この感情に、素直に憤怒は「楽しかった」と名前を付けることにした。
「前線の仕事は、やっぱりお前が全部引き受けてんのか」
「基本は、そうだな。狐や蛇女も連れていけんことはないが、あの二人も補助か不意打ちが主な役だ。人を相手どるにしろ化け物退治をするにしろ、数を引き受けるならわかりやすく力のある私に集中する」
 満足のいくまで喉を潤した男が、此方に近づいてくる。傍の壁に背を凭せ掛けた彼がこんなことを言った。
「辛くは、ないか」
 先程までの威勢のよさからはかけ離れた台詞に面食らった。憤怒は、男の質問の意図がわからなかった。
 相手の顔を見上げれば、彼の視線が己の腕に向いていることがわかる。ああ、と憤怒は納得した。袖口をまくり上げた左腕から覗く傷跡。これを見たのかもしれない。
「心配には及ばない、傷はとうに癒えている。そも、私は痛みとか肉体の疲労とか、そういうものとは無縁だ」
「そういう心配はしてないんだけど……まあ、いいや。その様子だと、お前はまだまだこの場所で働く気があるんだな?」
 憤怒の回答は的を外れていたらしい。頭を掻きながら、男は再度真意を量りかねる問いを投げた。
「先のことは知らん。だが、当分は此処に居座るつもりだ。やるべきことは依然多い」
「なら、いいよ」
 そのように答えると、男は今度こそ満ち足りた笑顔を浮かべた。可笑しな奴だ。身の上で一番参っているのは自分だろうに、頼った相手の心配をするなど。憤怒はふっと笑い、立ち上がった。
 そのついでに、男と拳を交わす中で過ぎった思考が今更になって蘇る。危うく言い忘れるところだったと、慌ててそれを口にした。
「そうだ、今思い出した。お前によく似た動きをする者と以前対峙したことがあった」
「マジか! 誰だ、そいつはどこにいる?」
「シロツメ堂というジャンクショップだ。そこの店主の動きの癖がかなりお前のそれと類似していた。丁度、怠惰が明日そこに用があると言っていた筈だ、一緒に行ってくるといい。何か得られるかもしれない」
「五日目にしてやっと足がかりが見つかるとは! 随分待たされたもんだぜほんと」
 軽口を叩きながら、目の前を通り過ぎて男がドアに手を掛けた。
「そろそろ時間だ。さ、朝飯食いに行こうぜ」
「うむ」
 その時だった。
 瞬きしたその瞬間、記憶にない光景がフラッシュバックする。それが、ドアの向こうに消えていく背中に重なり、酷く既視感を覚えた。思わず引き止めようと口を開いたが、喉がつかえて、声が出ることはなかった。
 奇妙な体験に、憤怒は立ち尽くす。扉は自らの重みで勝手に閉まっていた。扉の小窓にとってつけられたような、店のチラシと相対する。
 『七顚屋』の『七』の字が、自分をじっと見つめている。どうして、七なのだろうか。この家には、六人しかいない。