#9 REMEMBER YOU.


(七)

 立つ鳥は跡を濁さない。来た時よりも却って綺麗に片づけられた部屋を見て、彼がもういなくなるんだということを実感した。今日が七日目だった。
 ノックも無しにドアを開けると、男は丁度窓を閉めていたところだったようで、こちらを振り返った。外から聴こえていた風の音が、鳥の歌が、人の声が遮られて、急にこの部屋が世界から切り離されたような感じがした。
「ねえ、ホントに今日で帰っちゃうの?」
 嫉妬はつまらなさそうに口を尖らせた。
「帰るっつーか、帰る場所がねえから出ていくってのが正しいけどな。何にせよ、今日でお別れだ」
「なんかごめんねえ。手伝わせるだけ手伝わせて、結局キミの正体はわかんないままだったね」
「まあ、手掛かりが得られただけでもいいんじゃねーの? オレも楽しかったしな」
「アタシがモヤモヤしてるからよくなーい! 出ていくならすっきり問題解決してからで良かったのに、まったくもう。律儀に憤怒さんの言うこと聞いちゃってさ」
 折角整えたのであろうベッドの上に、ふくれっ面で嫉妬が座り込む。男は苦笑しつつ、荷物をまとめ始めた。
「忘れ物、無いようにねえ」
「ま、忘れて困るもんも持ってきてねえよ」
 確かに、初めてここに来た時の彼の荷物もあまり多くは無かった。寧ろ、一人旅も辛いだろうと色々土産を持たされたせいで今日の方がずっとリュックの中身は詰まっているように思える。
 男の背を目で追う。私物をしまい込んでいた彼は、机の引き出しを開けると不自然に止まり、その中に視線を落とした。訝しげにその様子を眺めていると、男が口を開く。
「お前は」
 鋭い双眸が静かにこちらを見つめ、問う。
「お前は、今。満たされているか」
「アタシは……」
 嫉妬には、その言葉が何を求めているのか理解することができなかった。ただ、呆然としながらも、心の奥底から本音が顔を見せた。何に促されるでもなく、口は自然に回答を紡ぐ。
「満たされてる、と思う。前よりはずっと。でもね……正直、まだ何か足りない気がしてるの。アタシがワガママなのかな?」
 ありのままに吐き出した言葉はどうやら男の気に入る答えだったようで、彼は満足気な笑みを見せた。そして、拳を嫉妬に向けて突き出す。殴られているわけでもないのに、胸の奥底を突かれたような気分になり、息を吸った。
「なら、もっと我儘を突き通せ。足りないものがあるんなら、他でもないお前自身の手で、それを埋めてみせろ」
「アタシの手で……?」
 拳を降ろした男は、開いたままの引き出しをそっと閉じる。
「例えこの世の誰もが忘れようとも、積み上げたものは決してなかったことにはならない。一人でも、そこにあると信じる限り、それは確かに存在する」
「……何が言いたいのかよくわかんないよ」
「ただの独り言だ、わかる必要はねーよ」
 男は嫉妬に背を向けた。荷物を背負い、ドアノブに手をかける。
「じゃあな。憶えていたら、またどっかで」
 なんとなくベッドの上から動けない嫉妬を置いて、男はその場を去っていった。部屋は静寂に包まれ、今この時から正真正銘の空き室へと還った。
 ベッドにすっかり仰向けになって寝転がる。嫉妬には、真っ白な天井ではなく、脳裏に焼き付いて離れない男の黄金の瞳が見えていた。
 ふと、寝返りを打てば、机の引き出しが僅かに空いているのがわかった。最後に男が触れていたところだ。起き上がって、近づいて、閉じてしまおうとする。手を少し前に押し込んでやればいいだけの話だった。しかし、無性に中を覗きたくなって、否、覗かなければいけない気がして、嫉妬の右手は自ずと手前に引かれていった。

 見慣れた形の、黒いゴーグルと目が合った。

「……忘れ物」
 そんな単語が、口をついて出た。誰の忘れ物だというのだろう。何が忘れ物だというのだろう。ただ一つ明らかなのは、この家には『忘れ物』があるということだった。その事実だけが、嫉妬の胸をはやらせた。
 嫉妬はそれを引っ掴むと、部屋を飛び出した。階段を駆け降りると、廊下を歩く色欲と鉢合わせる。
「あらあら、あんまり走ると危ないわよ」
「ねえ色欲さん、ナナシさんもう帰った!?」
「え、ええ。たった今、出ていったけれど」
「アタシ、ちょっと外出てくる!」
 勢いに気圧された色欲を置いて、嫉妬は玄関のドアを開け放ち、外に出る。後ろから制止する声が飛んでくるが、今の彼女の耳には届かない。
 雲が渋滞する空の下、雨の心配すらせず嫉妬は駆けた。男の姿は既に見えず、どこに行ったのかもわからない。それでも闇雲に走った。その人を探して、ただひたすらに街を駆けまわった。
 何度も見てきた景色を、次から次へと追い越した。初めて出会った場所、仕事で訪れたお店、ふらっと散歩に来た公園、喧嘩をした裏道。それら全てが、視界を過ぎっては消えていく。空白の思い出が旧懐を叫んでいた。
 君の。君の声が思い出せない。君の顔が思い出せない。君の名前を。何度も何度も呼んだ筈の、君の名前を。それもその筈だ、『君』はとうにいないのだから。君はこの世界の誰からも忘れ去られてしまったんだ。それでも、思い出さなくちゃ。今もどこかでさ迷っている君を、アタシが見つけなくちゃ。君が居たことを、アタシが証明しなくちゃ。でも、そんなこと、どうやって――
「名前を、思い出そうとしてはいけない」
 突然掛かった声に、嫉妬は立ち止まった。声のした方を見れば、相も変わらず真っ白なローブに身を包んだ父が――原罪が、本を片手に壁に背をもたせかけている。
「お父さん、何で」
 続く言葉を、原罪は指を唇の前にかざして遮った。もう久しく会っていなかったというのに、どうやら会話をさせてくれるつもりはないようだった。一方的に、助言だけが与えられる。
「彼は、一体どんな人だった?」
 君は、どんな人だっけ。
 君は、世界一自分勝手で、世界一強くて、世界一負けず嫌いで、世界一の自信家。そうしていつもアタシたちを振り回すけど、アタシたちが帰る場所をくれた人。でも、自分の帰る場所は忘れてしまう、そういう奴だ。
 アタシのことを引き止めておいて、勝手にいなくなったあいつは。あんなヤツ、世界中どこ探したって、一人しかいないんだ。
 君は、世界一。

「キミは……キミは…………『傲慢』だった!」
 
 一瞬、ほんの一瞬、ぷつりと電源が切れたような静寂と暗闇とが世界を包んだ。五感を取り戻した時には、もう父の姿はどこにもない。それと引き換えに、後ろから近づく一つの足音があった。地を蹴る音だけではない。カチャカチャと刀が揺れる音も、その歩に合わせて聴こえてくる。
 わざとらしいため息の後、その人が喋り始めた。
「しっかし、一時はどうなることかと思ったぜ。今更村に戻ったって、それこそ帰る家なんかねーもんな」
 馴染みのある声が耳に届いた。振り返ろうにも、どういう顔をすればいいのかわからない。何より、彼を思い出した今、改めてその顔を見るのが怖かった。途端に蘇る全てが胸を圧迫して、呼吸をするので精一杯だった。
 嫉妬のすぐ背後、その靴音が止まる。
「ほら、そのゴーグル返せよ。大事なモンだからさ」
 依然背を向けたままで、後ろ手に言われた通りゴーグルを差し出す。不誠実な態度が気に食わなかったのか、彼は左手で嫉妬の手首を掴むと強引に振り返らせた。その行為がどこか、初めて出会った瞬間を二人に想起させる。
 視線がぶつかって、傲慢は嫉妬の表情にぎょっとした。
「いやお前……何、今になって、泣くなよな」
「だって……一年だよ、一年も……」
「たったの一年で済んだだけましだろ」
 傲慢は奪い返したゴーグルを額に装着し髪を整えると、両手を腰に当てて仁王立ちして見せる。
「天下の傲慢様がお前のワガママを叶えに帰ってきてやったんだぜ、もっと笑えよ」
「ごー、まん、くん……おか、えり」
「……その返事は店に戻るまでとっとく」
 さっきまで空を覆っていた重苦しい雲はいつの間にか通り去って、覚めるような青が差し込んでいた。やっぱり傲慢くんには、晴れの日が一番似合う。嫉妬はやっと、口角を上げることができた。
 踵を返し、傲慢が七顚屋に向けて歩き出す。今度こそ置いていかれないようにと、隣に並んでやった。そんな嫉妬の顔を見て、ああそうだ、と傲慢は呟く。
「あのさ」
「なに?」
「オレを思い出してくれて。ありがとう」
 なくしていたパズルのピースが、かっちりとはまる。世界が再び、彼らの存在を認めて回り始めた。