epilogue: REMEMBER ME.
「本当に、すまなかった」
そんな声が降ってきたのは、今日が始まってから時計の長針が十三と半分は回った頃だった。
憂鬱はきょとんとして顔を上げる。昼食を済ませ、片付けも一通り終え、客の来ない店で花を眺めながら鼻歌を歌っていた彼女は、その言葉の意味がすぐにはわからなかった。
「なんですか、いきなり……鉢植えでも割っちゃいました? ちゃんと元に戻してあげればだいじょう――」
続けようとした言葉を遮るように何かが倒れるような物音がして、それから少し遅れて花瓶の割れるいやにうるさい音が店内に響いた。辺りを見回しても、そこにいる筈の彼の姿が目に入らない。数秒後には当たるであろう胸騒ぎを抱えてカウンター裏に駆け寄れば、その場に倒れ伏す虚飾の姿があった。
「虚飾さん!」
憂鬱は身を起こそうとする虚飾を手伝うように肩を支える。とうに慣れた筈の彼の身体の冷たさが、今は嫌な連想しか引き起こさない。覗き込んだ顔はこちらを見る余力すらないようだった。
名を呼ぶ以外に口にできる言葉を、憂鬱は持ち合わせていなかった。何が起きたのか、彼女は理解している。理解しているからこそ、事象への覚悟の無さを突き付けられる。逡巡している内に、先に虚飾が口を開いた。
「俺は、嘘吐きだ。君にした、約束を……何一つだって、叶えてやれなかった。本当に――」
「そんなこと!」
掠れた虚飾の声に、今度は憂鬱が言葉を被せる。
「そんなこと、ないです! だって、あなたは」
あなたに聴こえるように。私の「本当」が届くように。憂鬱は必死に声を張り上げた。
「ちゃんと、私が花を抱えられるように。してくれたじゃないですか」
その言葉に虚飾が顔を上げる。彼の視界に、鮮やかなものが映った。これは、花だ。その先に、心優しい少女の顔が見える。割れた花瓶から放り出された花々を掬い上げるのは、他でもない彼女の温かい腕だった。
それは、他でもない君の力だと。そう口にしようとして、やめた。自分に向けられた目の前の真っすぐな視線を、わざわざ折る必要も無いと思った。これは、己が受け取らなければいけないものに違いなかった。
よろめきながら、立ち上がる。壁にかけられたペストマスクに手をかけ、憂鬱の方を見た。
「行きたいところが、ある。帰りが遅くなるかもしれない。店を……任せても、いいか」
涙を拭い、笑顔と呼ぶにはあまりに不格好な表情を浮かべて、彼女は答えた。
「……はい。シロツメは、もう私一人でも、大丈夫ですから」
舞踏会の終わりが近づいている。時計の針が天を指した時、魔法は解けてしまうのだろう。それでも、夢のような時間が無価値なものだったとは、憂鬱は思わない。路地裏に咲く小さな花にも、確かに誇りはあったのだ。