#9 REMEMBER YOU.
(四)
いってらっしゃい。玄関先で手を振って、わたしはあにさまを送り出した。
今日の七顚屋はちょっぴり忙しい。色欲さんは浮気調査のために、女性客と打ち合わせ。きつねさんと嫉妬さんはゴミ屋敷の清掃で、怠惰さんはペンキ塗り。そしてあにさまはこれから中等種の害獣対策のお仕事がある。どれもすぐには帰れなさそうな依頼だ。
わたしはまだ力もないし体も小さいから、こういう難しいお仕事はやらせてもらえない。もしできたとしても、大切な依頼が幼い女の子に任せられるというのはお客様にとっても不安だと思う。だから、みんなが仕事に出る時は大抵ひとりでお留守番をしている。お家のお掃除をしたり、お勉強をしながら、電話と呼び鈴の音に耳を立てるのだ。
気持ちのいい太陽を浴びながら、外の空気をめいっぱいに吸い込む。お庭で光る朝露のきらきらに元気をもらって、わたしは家の中に入ろうと重いドアを引いた。そして、わたしはその先に立っていた人を見てびっくりした。
「あれ、ななしさん」
「よ! 皆もう行ったのか?」
玄関扉の向こう側には、箒を担いだ男の人が立っていた。この前、七顚屋に依頼に来て、七日間だけ居候することになった名無しさんだ。朝にぴったりの清々しい笑顔をこちらに向けている。
「ななしさんも、おるすばんなのかしら? てっきり、だれかのお手伝いをしについていったのだと思ってたのだわ」
「今日はお前に頼む用はないって憤怒に言われちまってさ。悪いな、出会って数日の兄ちゃんと二人きりで留守番なんてことになって。オレ、どっか行ってようか?」
「ううん、気をつかわないで! 一人だとたいくつだから、おるすばんにナナシさんがいてくれるのはとってもうれしいのだわ。あにさまもきっと、あなたのこと信用しているから、おいていったのだと思うの」
その言葉に嘘はなかった。出会ってほんの数日なのに、気さくで働き者の名無しさんはすっかり七顚屋に馴染んでしまったような気がする。特に驚いたのは、あにさまの態度だ。今日だって、いつものあにさまであれば「何処の馬の骨とも知れん輩に店とお嬢を預けられるか」などと怒って彼のことを追い出しただろう。それをしなかったところに、あにさまなりの信頼が現われているように思えたのだ。
「そうかなあ。ま、お互い留守番、頑張ろうぜ」
名無しさんは、そう言って奥に引っ込んでいった。わたしもその後に続いて、玄関の戸締りをしっかりとした。
本当はわかっている。あにさまは恐らく、わたしのことを思って名無しさんを家に置いてくれたのだと。その優しい気遣いが嬉しくもあり、でも、少し大きくなった私にとっては寂しくもあった。そんなにわたしのことが心配だろうか? 以前に比べれば今のあにさまはわたしに色んな事を任せてくれるようにはなったけれど、あともうほんの少し、頼ってくれてもいいのにな、と思う。
物思いに立ち止まっていた私の頬を目を覚ました右の頭がぺろりと舐めたので、ちょっぴり口元が緩んだ。
「だから、今日はしちてんやのみんなのために、わたしがお夕飯を作るのだわ!」
「よ! 食事担当大臣!」
昼食も済んで後片付けを行ったわたしたちは、午後になり再び厨房に立っていた。
色欲さんは打ち合わせの後、そのまま尾行を始めると連絡があった。他の皆も帰りは早くないだろう。となると、大変なのは食事の準備だった。六人分、否、自分の食事量を考えるとそれよりもずっと沢山の人数分を用意する必要がある。となると、普通の家庭よりずっと時間も手間も掛かるのだ。仕事終わりにくたくたになりながら、みんなで野菜を切ったりお皿を並べたりするのは賑やかで楽しいと思うけれど、しんどい中での作業なのだろう。
だからこそ、今日はわたしがみんなのために頑張りたい。心を込めた料理を以て、日頃の恩を返すのだ。
エプロンを身に着けて、長い髪をお団子状にまとめ直す。両頬をぱちんと叩いて、気合いを入れた。二つの頭もそれに合わせてわん、と鳴く。それを見ていた名無しさんが、角椅子から腰を上げながら尋ねる。
「で、暴食先生。今日は何を作るんだ?」
「きほん中のきほん、カレーを作ろうと思うのだわ! ななしさんも、もし良ければ手伝ってくださるとうれしいわ」
「任せとけ! 何でも押し付けてくれよな」
そう言って上腕を叩く名無しさんはとても頼もしく見えた。今なら何でもできそうな気がする。ピカピカに磨かれた調理台に、冷蔵庫から取り出した食材を順に並べていった。
ところが、調理はそう上手くは進まなかった。
まず、野菜を切るのがすごく難しい。右手で包丁を握り、左手は猫の手をするのだ、と色欲さんによく教わってはいたものの、いざ一人で挑戦してみるとその通りにはいかなかった。段々小さくなっていく野菜に合わせて猫の手は歪な形になるし、包丁は真っすぐ下りていかない。指先すれすれを震える刃が掠める度に、名無しさんはおろか私の両の頭までもが声を上げる始末だった。
それでもなんとか具材を切り終えて、不揃いのそれらを今度は炒めていく工程に入った。玉葱から順に炒めていく、ということは覚えていたけれど、その加減がわからなかった。この場にいる誰も、カレーのちゃんとした作り方を知らなくて、ああだこうだと相談しているうちに玉葱は黒っぽくなってしまった。とはいえ、もう後には引けない。水を入れてルウを投下し、煮込みにかかる。
「……オレの知ってるカレーの匂いじゃない気がするんだけど、気のせい?」
「わ、わたしもそう思うのだわ……」
二人で顔を見合わせる。暫く時間が経って出来上がった鍋の中のそれは、なんだかいつも食べているカレーとは似ても似つかない色を呈していた。
「と、とりあえず、あじみをしてみようと思うのだわ!」
「そうだな! 見た目と中身が同じ出来とは限らねえしな」
空元気を出し無理やり明るい声で宣言しながら、わたしは二つのお皿にカレーをよそった。唾を飲み込む名無しさんに、その片方を手渡す。深呼吸した後、茶色とも言い難いスープを匙で掬って、恐る恐る口へと運んだ。舌先で成果物を味わう。やっぱり、いつものと何か違う気がするのだわ。そう言いかけた時、隣の彼が小皿をテーブルにことりと置く音が聴こえた。
「悪い。あの、本ッ当に悪いんだけど、一回トイレ行ってきていい?」
お手洗いから帰ってきた名無しさんを、わたしは鍋を抱えて直接スプーンで内容物を食べながら迎えた。その様子を見た彼は、大慌てで駆け寄って目の前でおろおろした。
「おいおい! お前、そんなに食ったら腹壊すぞ!」
「いいの。わたし、何を食べてもおなかがいたくならない体なの。ひつようなら、毒だって石だって何を食べても平気なの。ちょうどおなかもすいていたから、おやつにぴったりなのだわ」
落ち込んだ素振りを隠せないまま、暗い声で返事をする。スプーンを口に含む度、何とも言えない風味が口の中に広がった。たまに左右の頭に食べさせてみても、やっぱりあまり美味しくないのか、首を傾げている。
わたしは暴食の罪人だから、際限なく、何でも食べられる体質を持っていた。その延長なのか普通の人よりも味覚が大雑把なところがあって、みんなが美味しくないと思うものも何の疑問もなく食べることができるようだった。そんなわたしがおかしい、と思った料理だ、名無しさんにはもっと酷いものだったに違いなかった。これをお手伝いとはいえお客様にお出ししたことが恥ずかしかったし、何よりみんなに振舞える料理を私では作れないという事実に打ちひしがれてしまった。
数分もかからず失敗作をぺろりと平らげても尚、鍋を抱えたままその場から動くことができずにいた。呼吸をすると、吐く息が震えてしまって、ああ、だめだな、と思った。
「わたし、まだ小さいから、みんなの役に立てることがあまりなくて。それどころか、たくさん食べなきゃいけないから、めいわくばかりかけているの。だから、今日くらいは、みんながよろこんでくれることをしようって思ったけれど、やっぱり失敗しちゃった。わたしは、ダメな子なのだわ」
空っぽの鍋の底に、弱音と涙がぽろぽろと零れていった。ただでさえ役立たずなのに、弱い心すら抑え込むことができずにまた気を遣わせてしまっている。泣いても何にも解決しやしないのに。見えない手が胸のあたりを掴んで、嗚咽を絞り出しているようだった。
お片付けしなきゃ。そう言って立ち上がろうとした時だった。
「オレには、そうは思えない」
「え?」
名無しさんが、わたしの肩を掴んだ。思わず顔を上げると、真ん前にとっても真剣な表情の彼の顔があって、驚いた。この人のこんな顔は初めて見たからだ。
「たった四日間しかお前のことは見ていない。でも、この四日間、お前が役立たずだなんて思う瞬間は一度も無かった。お前は皆とこの家の様子をいつでもしっかり見てる。寝ている怠惰にブランケットをかけてやったり、探し物をしている嫉妬に声をかけたり、疲れた様子の強欲の肩を揉んだり、帰って喉が渇いた色欲に冷たい水を出しもしてた。雨が降りそうになったら洗濯物を取り込むし、落ちていたゴミも何も言わずに拾う。帰ってきた憤怒のバイクの音に真っ先に気づくのもお前だ。そういうお前の姿を見る度に、アイツらがどういう顔してるか知ってるか」
首を横に振ると、彼はその答えを言う代わりに、優しく微笑んで見せた。
「お前は今朝、『憤怒はオレのことを信用しているから留守番をさせた』って、言ってくれたよな。でも、逆だと思うんだよ」
「どういう、ことかしら」
「お前を信頼しているから、信用ならないオレのことをお前に任せたんだ」
その一言に、強く頭を打ったような衝撃を受けた。それと同時に、いつだか、あにさまがわたしに言ってくれたことがふっと思い浮かんだ。
『もう誰も、お前を傷つけないように。お前が、誰も傷つけないように』
ああ。とっくにあにさまは、わたしを一人で歩かせてくれていた。つないだ手を離して、背中を押してくれていたんだ。
「お前がそうなりたいと願うなら、いつかは必ずそこに辿り着ける。オレが言うんだから、絶対なんだ」
オレが言うから、とは、なんて無責任で――な言葉だろうと思った。でも、そんな言葉がわたしの涙を拭ってくれた。今度こそ、本当に何でもできそうな気がした。
目を擦って、立ち上がる。
「ごめんなさい。わたし、あきらめたくないのだわ。もう一回だけ、チャレンジさせて。今度は、あなたにもっとたよるから」
「ああ。とびきり美味い飯作って、アイツらをびっくりさせてやろうぜ」
玄関を潜ってみれば、スパイシーな香りが廊下にまで漂っている。
「ん、今日はカレーか」
「みたいね」
憤怒が独り言ちれば、後ろから声をかけてきたのは驚くことに色欲だった。
「……貴様の方が帰りが遅いだと? じゃあ、これを作っているのは一体誰だ」
口元に一本の指を立てて、色欲が廊下を進みながら手招きする。なるべく音を立てないようについていけば、彼女は厨房の前で足を止めた。そのままそっと、扉を開けて中を覗くように目で促す。憤怒は、誘われるがままに扉の隙間から中の様子を覗いた。
「……ああ」
賑やかなその光景に、何も言うことはあるまい、と二人は黙ってその場を去った。