epilogue: REMEMBER ME.
少しばかり生ぬるくなってきた夜風にあてられながら、虚飾は傲慢の後を追う。彼の背中はどこか足早に感じて、ついて行くのがやっとだ。それは今に限ったことでもなく、十年前から変わらない。いつも先を行くのが彼で、その後を必死に追うのが自分だった。
人通りの多い繁華街から逸れ、二人は比較的静かな街路に足を向ける。喧騒と人工の照明が遠くなり、明かりが漏れる家屋から優しい夕飯の匂いと笑い声が風に運ばれてきた。どこか懐かしい情景が思い出されるようだった。彼と、彼の母と、三人で囲んだ囲炉裏。この街よりもずっと涼しかった夏の夜。障子を開け放った縁側から入り込む山の空気が汗を冷やして、それが心地よかった。
「にしても、連絡の一つでもくれりゃあそっち行ったのに」
意識を引き戻すように、傲慢の声が前方から飛んでくる。虚飾は鬱陶しそうに息を吐いた。そりゃあ、あんたならそうするだろうとも。
「……うちと違って、随分繁盛しているみたいじゃないか。あんたが欠けたら、手が回らなくなるだろう」
「心配しなくても、アイツだけで十分仕事は回るって。まっさかお前、そんなこと気にしてたわけじゃねえだろ」
甘え下手をこっちのせいにするなよな、と傲慢はカラカラ笑って、歩調を緩め虚飾の横に並んだ。どこか子供扱いされているかのような振る舞いが癇に触って、顔を背ける。彼相手では口喧嘩に持ち込む気力も湧いてこなかった。
「なら、少し休ませてくれ。いい加減疲れた」
「ああ、わりぃわりぃ」
じゃああそこにしよう、と傲慢が指さす先、階段をあがった所に公園らしきひらけた緑地が見えた。石段を上ってみると、ベンチと時計、そしていくつかのモニュメントが置かれただけの簡素な広場がある。電波塔程では無いが、街の様子がよく見えるようだった。手すりに肘をついて興味深そうに景色を眺める傲慢を余所に、虚飾はベンチの一つに腰を落ち着けた。
「見ろよ。ここから七顚屋も見えるんだぜ」
「見てるよ」
「な、シロツメはどの辺だよ」
「多分ここからじゃ見えない」
いつの間にか黒く塗りつぶされた空に覆われた街では、家屋が、店が、街灯が放つ光の一つ一つが克明に見えた。少年時代を過ごしたあの村とは違って、ここでは空に数えられる星は随分と少ないように感じたが、代わりに地上には多くの人の営みが灯として生きていた。明かりの数だけの営みが存在することになかなか実感が湧かなかったが、それだけ狭い世界の中で生きてきたのだろうと思う。
傲慢はというと、どうにか目当てのその建物を見つけられないかと背伸びをして粘っていた様子だったが、暫くすると諦めたのかベンチの方にやってきて虚飾の隣に腰を下ろした。
緩慢な仕草で脚を組む彼の表情が、街灯の光に薄っすらと照らされていた。
「なんか言いたいことがあって、うちに来たんだろ」
「……その筈だったのに、あんたのせいで言いたかったことを全部店に置いてきてしまったものでね」
「んなこと言ったって、オレも鳥仮面のくさいセリフ聞かされんのは御免なんだよ。オレはさ、お前の言葉を聞きにきたんだ」
「……あんたの言葉も十分気取ってるよ」
いよいよもって、呆れた溜め息を一つ吐く。まとまらない思考も、上手く動かない身体も。罪の力を借りれば上手く繕える気がして仮面を持ち出したというのに、肝心な時に手元に無いようでは意味がない。
傲慢はそれ以降口を開くこともなく、笑みを浮かべているだけだ。どうやら俺の言葉を本当に待っているらしい、と悟った虚飾に逃げ場は無かった。困って投げた視線の先、広場の柵の向こうで、住宅街の中の光が一つ、ふっと消えたのが見えた。
例えるならば、それと似たようなものだったのだろう。大事にとっておいた灯火が、ある日突然、風に吹き消されてしまったような。
「ずっと、置いていかれているような気分だった」
ぽつりと呟かれたそれに、少し驚いたような顔が向けられる。一言目を口に出してしまうと、きつく締めていた栓が緩んでずるずると言葉が引き摺りだされていくようだった。
「あんたはそんなつもりもなかったかもしれないが、俺はいつも置いてけぼりで、どれだけ走っても追いつかなくて、あんたの視界の隅にも入っていないような気がしていた」
「……そうか」
「今だってそうだ。あんたはいつも、遠くを見てる。俺には見えない何かを、ずっと見ている。俺は、そうはなれなかったし、それにもなれなかった」
「オレはいつも目の前のもんしか見てねえよ」
「見てなんかないさ。あんたには何も見えていない! その上、あんたが見てるもののことは誰も理解が及ばない」
なあ、そうやって顔を覗き込まれてる今も、あんたが何を考えているのか、わからないんだよ。
傲慢の瞳は寸分も動くことなく虚飾を捉えている。きっと虚飾の言葉に真剣に耳を傾けているのだろうが、彼にはその眩いまでの金が、視線が、痛くて仕方が無かった。
その視線の先、俺を貫いた先には、一体どんな景色が広がっている?
「一番になんかなろうとしないでほしかった。そんなことをしなくても、俺の一番はあんただったのに。でも」
俯いた顔から、乾いた笑いが零れる。諦めに近い感情を含んだ声だった。
「一番に在ることをやめた兄さんは、俺の一番の兄さんじゃ、なくなるんだろうな……」
顔を傾けた虚飾を目で追った傲慢は、暫く口を閉ざしていた。困ったような笑みを浮かべ、彼は空を見上げた。
「……叶うなら。時間を巻き戻してでも、お前を助けに行けたらって。今でも思ってんだよ」
「……兄さんが言うと、そのうち本当にやりかねない」
虚飾は冗談交じりに苦笑して、言葉を続けた。
「でも、もういいよ。俺のことは顧みないでくれよ。後ろを向いて、また何か取りこぼすといけない。そうだろ? あんたは前だけ向いてればいいんだ。ただ……」
「ただ?」
傲慢は口ごもった彼に続きの言葉を促す。言葉を探しているというよりかは、既に決めていたそれを口に出すべきかどうかを逡巡しているような迷いがあった。意を決したように、虚飾がゆっくりと顔を上げる。
「ただ……欲を言えば。あんたが俺にとっての光だったように。俺も、兄さんの何かであれたら、というのは、過ぎた願いかな……」
虚飾の言葉を拾った傲慢が、大きく目を見開いた。
「なりたかった。俺もきっと、誰かの何かになりたかったんだ。自分の価値を、どこかに遺したかった。世界中の全ての人々から忘れられたとしても、俺が、俺たちが在ったことが、欠片でもいいから微かな風になって、誰かの背を押していてほしかった。兄さんの存在が無かったことになっても、あいつらが、あの場所に残り続けていたように」
ひとたび言い終えて、耐えきれずに顔を伏せる。許しを乞うように、言葉を絞り出した。
「消えたく、ないんだ……」
浅く息を吸う音が聞こえた。地面に視線を落としていては、兄がどんな顔をしているのかがわからない。しかし、虚飾にとってそれを確かめようとすることほど恐ろしいこともなかった。
とても長い時間が流れた気がした。一時間だったかもしれないし、数秒だったかもしれない。風が草木を揺らす音は、まるで静寂の中で時間を急かす時計の針のように思えた。
「……なあ」
そうして頭上から降ってくる声より先に、虚飾の頭を温度のある柔らかいものが包み込んだ。その毛並みと血の通った温かさは、紛れもなく彼の手のひらに違いなかった。
「言いたいことが、あるよ」
「……何、だよ」
「口にするのも恥ずかしいくらいだけど、本当のことだから。聞いてくれ」
虚飾の頭から、その手がそっと離れていく。ゆっくりと顔を上げ、恐る恐る、彼の顔を見た。
「お前は、ずっと。オレの胸ん中で燃え続ける、炎だったよ。オレの、どうしようもない衝動の根源はさ。アイラ、きっとお前なんだ」
彼の目は、遠くの夜闇を、真っ直ぐ捉えていた。
「あの日、お前に手を伸ばした日から、今日まで。名札が掠れて読めなくなっても、小さくなっても。変わらない色でずっと、確かに、燃えてるんだ。お前がいたから、オレは兄ってやつで……『傲慢』って、罪人なんだよ」
そんな彼の横顔を、食い入るように見ている。
「オレは最初から。どうしようもなく見栄っ張りで、弟に良いとこ見せたかっただけの、ただの兄貴なんだ」
初めて、彼の視線の捉える先が。ほんの僅かだけ、掴めた気がした。
(ああ、なんだ)
俺が願うまでもなく。ずっと、いたのか。俺は、そこにいたんだな。最初から、その場所に。
彼は依然アイラに目を合わせることもなく、遠くの街を眺めているようだった。だが、今ならわかる。目を細めている彼の言葉が、口先だけのものではないことを。彼の視界の隅には、確かに自分が映っていることを。それを知れただけで、満足だった。
ベンチの背もたれに上体を沈める。まだ少ししか喋っていないというのに、随分と身体は疲弊しているようだった。もう既に手足は動かなくなっていた。
遠くを見据えたまま、兄が問う。
「憂鬱には、ちゃんと声かけてきたか」
「ああ」
「寂しくなるな」
「……全部、わかってたって?」
「お前の顔見た瞬間から、全部」
「……敵わないな」
視界が朧になる。隅の方で、紅い影が揺れている。ベンチの上に投げ出された右手に、彼の左手でも重ねられたのだろうか。微かに人の体温を感じた。
「……なら、さ。最後に一つだけ、頼みたいことがある」
「なんだ」
「もう一度、名前を呼んでくれ」
意識が遠くなる中で、彼が、その名を呼ぶ声が聞こえた。それが彼の、全てだった。
「おやすみ、兄さん」
「ああ、おやすみ」
役割を終えた身体が塵となり崩れ落ちる。重ねていた手には灰だけが残り、指の間をするりと落ちていった。紅蓮は、ただそれを眺めていた。
――ビュウ。
ふいに吹き抜けた突風に、思わず目を伏せる。風が燃え尽きたそれを攫って、夜空を駆けた。かき集めるでもなく、天を仰いで、静かに見送る。月明りの下、青年の目にはそれが翼を広げる鳥の群れのように思えた。