epilogue: REMEMBER ME.



 薄暗く湿った路地裏を抜けて、大通り沿いを西へ。賑やかな商店街を見送りながら、アーチ看板の先に見える交差点を渡って右に。そのまま北へ向けて歩いた先に見えてくる、周りの住宅より少し大きな洋館。元の持ち主は宿として運営していたらしいその建物は、今では七人が暮らし営む便利屋として息をしている。あれこそ、巷で噂の「七顚屋」である。
 目に入れるのも厭わしかったこの場所に、こうして自ら足を運ぶことになろうとは。青々と茂る植栽に囲まれながら門を抜け、玄関先に立つ。耳を澄ませば、中の賑やかな様子が聴こえてきそうで少し気後れした。人の多いところは昔から得意ではなかった。
 とはいえ、ここまで訪ねてきてしまった以上目的を果たさずには帰れない、と叩き金に手を伸ばす。コンコン、と良く響く金属音に続いて、遠くで若い女の声が聞こえた。騒がしい足音が目の前で止まり、扉がそっと開かれる。
「はいは〜いあなたの街の便利なお店、七顚屋で〜…………うげ」
 扉の向こうから顔を覗かせた白髪の女――嫉妬は、訪ねてきた来客の正体がそこで悠然と立つ仮面の男であることを理解し、あからさまに顔を顰める。
「きょ、虚飾サン……ドモ……」
「タンポポか、こんにちは。元気そうでなによりだ」
「やめて〜その呼び方ムズムズする〜! ってゆーか、虚飾さんて外出るんだ!? あれ、シロツメ以外で虚飾さん見たの初めてじゃない!?」
「君は一年前のあれそれを全て無かったことにする気かな? 外で会うのはこれが初めてというわけでもないだろう。そうでなくとも、俺だって陽の光を浴びたい時くらいあるさ。最近は俺みたいな目立つ奴も、多少は出歩きやすくなったしね」
 大仰に翼を広げて見せる虚飾に、一層居心地の悪そうな表情を浮かべつつも嫉妬は彼を屋敷の中に迎え入れる。
「ところで……何の用? お仕事のハナシでもあった?」
「ああ、デルフィニウムに用がある。直接話ができればと思ったんだが、呼んでもらってもいいかな」
「デル……なんて?」
「ごーまんなら、今……外に出てるよ……」
 聞き慣れない単語に眉を顰める嫉妬の横から、枕を抱えた少年が割り込む。怠惰だ。眠たいのだろうか、目を擦りながら口を押さえて欠伸を堪えている。重い瞼を開け、大きな瞳が虚飾を捉えた。
「ライラック、この前はありがとう。頼んだ絵は順調かな」
「あ、うん。言われた日までには完成させられると思うよ、あとは細かいところの調整だけだから……って、そこからが長いんだけど……」
「ライ……?」
「いや、別に構わない。報酬も先に渡しているし、締切も目安であって急ぎではないから、気が向いた時にでも進めてくれればいいさ」
 話についていけない嫉妬をよそに、二人は個人的な会話をしているようだった。一通り話が済むと、玄関ホールを一瞥して虚飾は物憂げに溜息を吐く。
「そうか。いないのか」
 弱ったな、と零す虚飾の仮面の向こう、偏光レンズのその奥に、嫉妬は微かに光る赤い瞳を見たような気がした。言葉以上の本心は、嘘吐き同士にこそ透けて見えるもの。全く難儀なことだと思いつつ、らしくもないが気の遣った言葉の一つでもかけてみようかと嫉妬は口を開く。
「待ってけばいーんじゃないの?」
 その言葉に鳥の仮面が顔を上げた。
「探しに行ったところでアイツがまっすぐ帰ってくるとも思えないし。暇なんでしょ? 待ってりゃいいじゃん」
「うん……僕たちも今から外に出ちゃうんだけど、それでも良かったら、ゆっくりしていってよ」
 そういうものなのだろうか。怠惰の後押しもあり、すっかり退路を絶たれた虚飾は、しかし満更でも無いといった様子で頷いた。
「……なら、お言葉に甘えて」
 虚飾がそう答えるや否や、嫉妬は屋敷の奥の方へ向けて「色欲さーん、お客さん!」と大声で呼びかける。そうした後、ろくに引き継ぎもせず玄関の扉を開けて店の外へと飛び出した。じゃあね、とだけ言い残し去っていく彼女を、ぺこりと会釈した怠惰が慌てて追っていった。
 そんな二人を軽く手を振って見送り、ひとりでに閉まった扉に背を向けて屋敷の中を見渡してみる。シロツメ堂とは比べるまでもない広々とした玄関と廊下。年季が入った柱は古めかしさよりも厳かな空気を纏っていた。よくよく考えてみればこの家、もとい店に足を踏み入れるのも初めてのことで、勝手がわからずどうしたものかと足踏みをしていたところにコツコツと足早なヒールの音が近づいてくる。
「すみません、お待たせいたしました……って、あら。お客様って貴方のこと? いらっしゃい」
 廊下から若草色の髪を靡かせて姿を現したのは色欲だ。畏まった態度から一転し、肩の力を抜いて目を細めている。
「どうも。カサブランカ嬢は今日も光を浴びた朝露のように美しいね」
「今日び聞かない台詞だこと。事実を言っても何も出ないわよ、とりあえず客間の方に案内するから」
 こっちよ、と色欲が先導するので、虚飾もそれに続いて廊下を歩いていく。踵を返した長い髪から、ふわりと甘い香りがした。香水というよりかは、もっと身近であたたかいような匂いだった。
 少し先の扉を引けば、その先にこれまたアンティークの趣があるソファとローテーブルが並んだ小綺麗な客間が広がっていた。
「……立派だな」
「前の家主のものよ。修繕するにも結構な額が飛んだけれど、それだけの価値があるでしょう」
 革の背もたれに手を滑らせながら、色欲が座るように促す。
「ええと、珈琲で良いのかしら。貴方ほど上手く淹れる人に出すのも気が引けるけれど」
「いや、用が済んだらすぐ帰るからお構いなく。君の主人に少し話があっただけなんだ」
 虚飾の返答に色欲は眉を顰める。
「それでわざわざ七顚屋まで? けれど傲慢様、今日はデリルまで出ているから遅くなると思うわよ」
 脚を組みつつなるほど、と相槌を打つ。隣町とはいえ、七顚屋からは少し距離のある地域だ。
 二人が顎に手を当てて悩んでいるところに、入ってきたのとは別の扉から狐の耳が覗き込んだ。
「電話でもして呼び戻してやりゃあいいんじゃないの」
「ホオズキ」
 強欲は来客の姿を認めると、「やっほやっほ」と軽く手を振った。笑みを返す虚飾に対し、隣の彼女はというと眉間に皺を寄せている。
「ちょっと貴方。客一人事務室に置いて何してるのよ」
「いやあ、ちょいとご機嫌取りに必要なものがあって……あの人、今日は一段と面倒臭いぜ? 参るよホントに。あ、部屋には暴食もいるからそこは大丈夫っていうか」
「そんな面倒な人とあの子を二人きりにさせてきたわけ?」
 大袈裟な程の溜息を吐いて、色欲がやれやれとその場を離れる。
「ごめんなさいね。放ったらかしになってしまうけれど、それでもよければゆっくりしていってちょうだい。何かあれば事務室へ」
 振り向きざまにそう言い残して、色欲は強欲と入れ違うように部屋を後にした。

 話すことも無くなった虚飾は、ぶつぶつと何かを呟きながら戸棚を漁る強欲の姿を目で追っていた。垂れたままの尾が、彼にとってあまり喜ばしくはない状況であることを如実に伝えている。
 そうして数十秒、揺れる尻尾を目で追っていると、突然それが天にピンと伸びる瞬間があった。ああ、これだこれだ! と強欲は棚から取り出した瓶を掲げて満足そうに戸を占める。
「で、どうすんの」
 興味本位で「それは何か」と口を開きかけた虚飾の先手を打って、強欲が訊ねる。
 ふいに彼の興味が自分に向けられるものだから、柄にもなく驚いて虚飾の肩が僅かに跳ねた。彼の問いに、用意していた返答をすぐさま返す。
「長居する気は無いよ。気を遣わせても悪いしね、飯の時間までには出るから」
「んな事言わずに食ってけよ。憂鬱も呼んでさ、パッとやろうぜ」
「気持ちだけ受け取っておくよ」
「そーか、残念」
 強欲はつまらなさそうに鼻を鳴らし、虚飾に背を向ける。しかし、言葉に反して声色はそれほど気落ちしたものでもない。彼の誘いもまた雲のように軽いもので、深追いをするつもりはないようだった。
 そのまま部屋を出ていくのだろうと彼の背中を見送るつもりで眺めていた虚飾だったが、背を向けたままの彼が意外にもこう続けた。
「ベットのタイミングってのはさ、一期一会だぜ。安全を取ったつもりで逃した魚が、そのうち一生分の後悔を背負ってあんたを丸呑みにするだろうよ」
「含蓄がある。誰の言葉だい?」
 強欲は軽くステップを踏み、扉の前で振り返る。
「魚に尻尾を齧られた老いぼれギャンブラーさ!」
 右手と尻尾をひらひらと振りながら、強欲は扉の向こうへと消えていった。

 客間に一人残された虚飾は、室内のインテリアに一つ一つ目を向けながら時間を潰す。他人の家に住人の監視なく居座るのは、妙な居心地の悪さがあった。思いつきで行動に移したことへの少しばかりの後悔が手元にある。視界だけでもこの場所から逃げられるようにと、虚飾はソファに身を預けて瞼を下ろした。
 暫くして、再びドアが開く音がする。眠るに眠れない意識がそれを捉えてふっと顔を上げれば、パンケーキの乗った皿を持った少女がそこにいた。暴食だ。
「あ、えと……」
「こんにちは」
「こんにちは、だわ」
 その皿をテーブルに置いて、三つ首の少女はお辞儀をする。何も聞かされていなかったのか、思わぬ来客に彼女も驚いているようだった。何より、左右から犬の頭がこちらを睨みつけている。
 両の頭を撫でて窘めながら暴食は様子を伺うように話しかける。
「……遊びに、いらしたの?」
「ふふ、概ねそんなところかな。でも今日は、皆忙しいみたいだね」
「さいきん、お仕事が多いの。おきゃくさまがたくさんいらっしゃって、人手が足りないみたい。だから、わたしもちょっとずつせっきゃくのお手伝いをしているの」
「すごいな。一人前のお嬢さんだ」
 そう褒めると暴食は少し頬を赤らめて、嬉しさと照れの混じる笑顔で顔を伏せた。「いただきます」と小さな声で呟いてから、懐から取り出したフォークとナイフで柔らかな生地を切り分け、一切れを口に運ぶ。成程、色欲から微かに砂糖の香りがしたのは彼女のための食事を作っていたからというわけだ。
 隣の頭にもパンケーキを運んでやりながら、暴食は申し訳なさそうに虚飾を見上げる。
「ごめんなさい、おきゃくさまの目の前でお食事してしまって」
「構わないよ。俺は食事が要らないものでね」
「まあ! そしたら、わたしたちと足してはんぶんこしたらぴったりなのだわ」
 そうして無邪気に笑う彼女に合わせて虚飾もふっと笑みを零した。しかし、無垢な少女を見ているとどうにもいたたまれなくなり――否、自分の不誠実を他でもない己が許せないと思った。
 だから、仮面をとったのだ。
 虚飾が後頭部に回った金具を外して鳥の面を膝に置く様子を、一人と二匹は驚いた様子で見ていた。暴食の目に、燃えるように真っ赤な瞳が留まる。どこか馴染みのある赤色だった。
 覆い隠していたものが取り払われたその顔は、取り繕うまでもない悔いを暴食に向けていた。
「……君と、いや、君たちと、君の大切な人には。悪い事をした」
 『わるいこと』が何を指しているのか、暫くわからずきょとんとしていた暴食だったが、少ししてああ、と思い至る。あの時のことを、謝っているらしかった。
「あれは俺の責任だ。だから、どうか。憂鬱だけは、許してやってくれないか」
 両の頭と顔を見合わせて、暴食は戸惑った。今になって騙されたことを、その結果として至らない自分が憤怒に大きな傷を負わせてしまったことを掘り返されるとは思わなかったから。
 細い指を胸の前で遊ばせながら、ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「きずついてない、って言ったらウソになっちゃうけど……おこってもないのも、ホントなの」
 首を傾げて、困った笑みで少女はこう続けた。
「もうしないでね」
「ああ。誓って約束をするよ」
 いつの間にか仮面をつけた顔が、そう返した。

 暴食がパンケーキを平らげたところで、遠くから言い争う声が聞こえてくる。足音はこの部屋の前で止まり、大袈裟な音を立てて開け放たれた扉の向こうから、獅子の青年と狼男が揃って現れた。眉を顰めて苛立ちのままに捲し立てる男の言葉を笑って受け流すこの図もすっかりこの店の名物となっているらしい。
「あにさま、おかえりなさい!」
 部屋に足を踏み入れてもなお言い合っている二人は暫く来客の存在に気が付いていない様子だったが、暴食の呼びかけに彼女の方へ注意を向けたことで漸く虚飾の姿を認めたらしく、揃って目を丸くした。
 傲慢が珍しく呆気にとられた表情で言葉を零す。
「お前、来てたのか」
「シロツメの。こんな時間に何の用だ、わざわざ出向く程の急ぎなら電話の一本でも入れれば良かっただろうに」
「いや、構わないんだ。気を遣わせたね」
 虚飾はそう言って、身を預けていたソファから立ち上がる。そのまま暴食、憤怒の前を横切って、部屋を出ていくのかと思えば傲慢の前で立ち止まった。
 彼の挙動を三人が何も言わずに目で追う中、虚飾は傲慢の顔を仮面越しにじっと見る。
「……なんだよ」
 その頃には傲慢も平静を取り戻したらしく、疑問を抱いているとも思えない声色で彼に疑問を呈した。それは、傍から見る者には彼自身の心を晴らすというよりかは、その真意を相手自身に確かめさせようという態度に見えた。
 しかし、その期待には応えず虚飾はふいと背を向けて出口に足を向ける。
「おい」
「用は済んだ。帰るよ、長居してすまなかったね」
「待てよ」
 痺れを切らした傲慢が、虚飾の腕を肩を掴む。強引に自らの方に顔を向けさせた彼は、虚飾の仮面をその大きな手で掴むと、無理やり引きはがして床に放った。覆うものが無くなったその場所から、表情も取り繕えない動揺した彼自身の顔が、現れた。
「あれはここに置いてけ」
「待て、何を」
「悪い、ちょっと外出てくる。飯は先食っててくれ」
 おい、と反論する憤怒に構わず、傲慢は虚飾の手を引いてそのまま七顚屋を飛び出した。
「行くぞ」
 彼のすることが、読めないでは無かった。しかし、虚飾はそれを受ける他無かったのであった。それは、彼がそうすることをどこかで望んでいた自分がいたからに他ならなかったからだ。
 しかし、彼が何故このような行動に至ったのかは、虚飾には皆目見当もつかなかった。