#7 IT'S A LIE

「嬢ちゃん、調子はどうだい」
 後ろからかかる声に振り向けば、あいさつ代わりに手をあげる強欲がいた。
 時計の針が六時――時刻は午後の、六時である――を指す頃、暴食はリビングで一人、食事をとっていた。一日五度の食事のうちの、四度目。午後三時から始めたセカンド・ランチである。
「ええ、おかげさまで」
 ここで強欲の尋ねた調子というのは、目の前の少女の体調やこころもちのことではない。強欲は彼女の隣に座りながら、肘をついて『彼女たち』の顔を見た。
 暴食には、比喩ではなく文字通り三つの顔がある。一つは人間と同じ、年相応の幼い少女の顔。そして残りの二つは、その左右から覗く犬の双頭である。以前まではそれらには口輪代わりのベルトが巻かれており、『彼女たち』自身も眠ったままだった。
「それにしても、随分上手に食べられるようになってきたんじゃないの」
「わたしも、そう思うのだわ」
 そう答える暴食の手は、先刻からずっと膝の上にお行儀よく置かれたままだった。その横で丁寧にスープを飲んでいるのは、いつもなら眠っているはずのその『彼女たち』であった。
 暴食は、自分の手で、空腹に暴れる二つの自我を制御することに成功しつつある。
「二人にもおしょくじをあげるようになってから、なんとなく食べるりょうもへってきたきがするの」
「へえ、そいつは面白いな。暴食が一人で三人分食うより、各々が自分の必要なだけの栄養を採った方が、やっぱり効率がいいってことなのかね」
「なるほど、興味深い考察ね」
 そう口を挟んだのは、ティーポットをテーブルに置く色欲だ。色欲は満たんになったポットで、暴食の空になったコップに茶を注いでいく。
 ありがとう、と礼を言う暴食を横目に、強欲はふとテーブルの上に置かれていたテレビのリモコンに手を伸ばし、電源を入れた。そして、そこに映しだされた映像に目を見開く。
「な、なななんだよこれーッ!?」
 強欲の大声に視線が集まる。誰にも気づかれず、ソファで眠りこけていた怠惰が体勢を崩して頭をぶつけた。



- IT'S A LIE -



 街からそう遠くない、人気のない郊外の荒地。その先にある山道への入口で、虚飾は傲慢を待ち構えていた。
 憂鬱は、傲慢が今日そこへ現われるのだ、と確かに七顚屋の者から伝え聞いたという。初めは、七顚屋の誰かが腹いせに自分を叩こうと誘い出すための罠ではないかと勘ぐった。しかし、自らが負傷させた憤怒や自我を失っていた暴食、恐らく原罪の元へ戻ったであろう嫉妬と、相手方は満身創痍だ。残ったメンバーで役割を務められそうな者は彼の記憶にはなかった。そして『お話するなら、今しかないと思います』と、その日はやけに真っすぐな瞳で訴えかけた彼女の言葉に背を押され、話をする気こそ無かったが虚飾はシロツメ堂を出た。
 そして、彼の前に傲慢が姿を現した。こちらを見下すような視線を投げる、この世で最も憎むべき孤高な裸の王様が、単身そこに立っていた。
 虚飾は遂に対面した相手にこう吐き捨てる。
「俺からあんたに言うことは何もないがな!」
 虚飾の足が地面を蹴った。瞬間、まるで空間を転移でもしたかのように彼の体は傲慢の面前へと迫る。下から弧を描くように切り上げられる黒い刃を、傲慢の白刃が受け止めた。金属音が辺りに響き渡った。
 虚飾は、存外余裕ぶった表情で刀を構える傲慢に歯ぎしりした。
 虚飾の異常なスピードは、彼に与えられた『虚飾』としての、己を飾る能力によるものの一つだ。自分の持ち得ないものを、瞳を覗かれ、本当の自分が暴かれるまではまるで自分のもののように振るうことができる。自己を過度に信じることで己すら騙すこの力が、彼をここまで引き上げた。それに全く動じない傲慢を、虚飾が面白く思わない道理はなかった。
 力で押し切ることをやめ、虚飾が先に身を引いた。傲慢は押し返す筈だった力を刀を振って流す。すかさず虚飾が相手の表情を伺うと、やはり傲慢は不敵な笑みを浮かべている。鞘を持ったままの左手が、挑発のサインを送った。
「おうおう言うことないこたァないだろ、雄弁な店主サマはどこいった? 言葉にする余裕もないってんなら代わりにその刃をぶつけてこいよ。一つ残らず受け止めてやる」
「どうやらその減らず口も叩けないようにされたいらしい!」
 再び近づいた虚飾は、今度は切り上げる振りをしながら左足を回し傲慢の足元を薙ぎ払おうとする。これには虚をつかれた傲慢であったが、虚飾の肩を支えに彼の向こう側へと飛び越え、開けた荒野にて再び刀を構える。
 虚飾が身を翻す。傲慢の立ち姿を見て、どうやらまだ向こうから攻めてこないらしいことを察した彼は、感情のままに再び目標へと突っ込んだ。一度、二度、三度と覚えている限りの様々な型で謹製の刀を振るうごとに、虚飾の疑念は強くなっていった。
「どうして攻撃しない!」
「さあな」
 傲慢はただひたすら、色違いの打刀で虚飾の猛攻を撥ね退けるだけだった。それはそれは楽しそうに右手を振るうが、斬りかかってくる意思だけはいつまで経っても感じられない。何か思惑でもあるのだろうか、それとも単に自分は舐められている?
 わからない、わからないわからない。傲慢のことが何一つわからない。自分自身のことももう何もわからない。俺はとっくにあんたを超えて、強くなった。なのに何故、全て止められてしまうのか。その刃が振り下ろされないのか。死人に与える痛みなどないとでも言われているようにも思えて、それが腹立たしかった。
 傲慢が再び口を開く。
「お前の動きは手に取るようにわかるぜ」
「どうしてッ」
 そう言いながらも、傲慢は聳える一本の枯れ木の前に追い詰められていく。引き上げられる口角に対して、頬を伝う汗の一滴を虚飾の目は捉えた。勝てる、と脳が囁く。傲慢の踵が木の根に触れたのと同時に、虚飾は鋭く彼の心臓を目掛けて刀を突いた。
 読まれるような杜撰な動きはしなかったと、虚飾は自分の戦闘を評価していた。仮に読まれたとしても、常人にはとても反応できない攻撃だった、筈なのだ。
 だが、傲慢は、それを読み、躱した。
 虚飾の視界から傲慢が消える。視線を上げると、土埃と共に高く飛び上がる傲慢が、緋色の髪を揺らしていた。あろうことか、次の瞬間彼は突き出された刀を踏み台に虚飾の頭上を舞う。
 その重みを受け止めたのち、虚飾は振り返った。間に合わなかった。今度こそ、眼前に傲慢の刀が迫り、終わりを悟る。反射的に構えた右手から刀が弾かれる。
「それはなァ――」
 刃が跳ね返す日の光に、目を瞑る。刹那の輝きの後、鼻先を掠める切っ先は痛みを与えることなく、虚飾のマスクを真っ二つに切り裂いた。
「お前の動きが、昔のオレのまんまだからだよ!」
 枯れ木を背に尻もちをつく虚飾の左頬から僅か数センチ横、幹に刀が突き立てられ、そうして、勝敗が決した。

 傲慢は、数年ぶりに彼の顔を見た。仮面の下から現われた、かつてと変わらない顔立ちの中に、ただ一点真紅の右目が煌々と輝いている。何にも遮られることなく、ついに二人の視線が交差した。それが終戦の合図だった。ずっと焦がれ続けた『傲慢』という理想で着飾り、偽った力を、虚飾はもう行使することはできなかった。
 傲慢が、手にした刀を幹から引き抜いて鞘に納める。虚飾はその場を動かず、目を伏した。互いに、戦う意思は捨てたことを理解する。
 僅かな静寂の後、二人の間を風が通り過ぎた。
「随分強くなったな。でも、お前がオレに勝つには、百年早いよ。アイラ」
 その言葉に虚飾は顔を上げる。困ったような微笑みは、赤の他人に向けられるものではなかった。シロツメの店主でもなく、虚飾を名乗る気取った青年でもない。その目は、彼の”弟”を捉えていた。呼びかけられた名はとうの昔に奪われたものだ、今の彼にはそれが真に自分のものなのかを判別する術は無い。しかし、妙にしっくりとくる感覚に、これが己の名前であったのだと、青年は確信を得、息を呑んだ。
 目の前に立つ兄が、どうして『虚飾』に成り代わり消えた筈の『アイラ』の存在を見つけることができたのかは不明だったが、そんなことはどうでもよかった。兄は、確かに”弟”のことを、覚えている。
「きいたよ。オレを殺せば、原罪を止められると思ったんだろ」
「……ああ」
 虚飾は同意を示した。傲慢の力の行方一つで多くの人の命と人権が犯されることを知った彼の使命は、この手で彼を葬ることだった。彼とて人間を嫌悪していないわけではない。ただ、虚飾は罪に振り回されること、愛する者を失うことの痛みを、その身をもって、或いは一人の少女を見てきたことでよく知っていた。その裏には、敬愛していた存在をその根源にさせたくなかった自分もいたかもしれない。
「でも、お前がオレを殺したかったのは……そんな綺麗な理由だけじゃあ、ねえんだよな」
「……ああ、そうさ」
 そうだった。虚飾は、傲慢が、兄が、憎かった。
 虚飾の頭の中を、数々の思い出が通り過ぎていった。初めに蘇ったのは、最も古い記憶。ある日突然、里を追われて訳も分からぬままに家族を奪われた喪失感と、失った左腕を走る耐えがたい激痛。その時、山道に伏していた自分を今と同じように見下ろして、見つけてくれたのが傲慢だった。彼の母に迎えられ、虚飾は実の息子のように育てられた。傲慢は、心も体も弱い不出来な彼に、何もかもを教え、導き、いつでも傍にいてくれた。虚飾は、傲慢を兄と仰いだ。心から尊敬していた。
 だから、彼は傲慢が村を去り、二度とその姿を見せなかったことを『裏切り』としたのだ。
「あんたには俺の気持ちはわからない」
 あんたを追って、村を飛び出した俺の気持ちがわかるか。くだらない事故で、誰にも手を差し伸べられることなく命を落とした俺の苦しみがわかるか。神にも等しいその男、原罪の力を借りて、自分の死から目を逸らしてまで生き返ろうとした俺の執念なぞ理解できる筈もない。そうしてやっと見つけたと思えば、俺の知らない人たちと楽しそうに笑っているあんたの顔がそこにあった。何もかも許せなくなった。だから嘘を吐いた。あんたのことを心から慕いたかった自分に、嘘を吐いて、復讐の衣を身に纏ったというのに。
「ああ。オレには、お前の気持ちは、きっとわからない」
 それでもせめて、かつての純粋な少年の中でだけは、光を失わない兄でいて欲しかった。
 傲慢が自身の左目を指さす。勝つことに夢中になり、気が付かなかったが、虚飾も彼の変化をようやく察した。
「気づいてるか。ヘマしたんだ。もうここには『傲慢』はいない」
「……勝っても負けても、どの道手遅れだったんだな」
「悪いな、期待に応えられなくて。だから」
 虚飾の目の前に、傲慢の右手が差し出される。
「今から、オレが止めに行く」
 根拠のない、しかし確固たる自信に満ち溢れたその双眸が、弟を照らしていた。

 傲慢に引き上げられ虚飾が立ち上がったところで、傲慢のズボンの右ポケットから携帯電話の音が鳴り響いた。簡素な機械の着信音が、何もない荒野と不相応だ。
「あんた、よく今までそれを落とさなかったな」
「いやァ完全に忘れてたな……おうオレだ、どうした色欲」
 設定していたメロディから電話の主が誰なのか直ぐに分かった傲慢は、ポケットから出した携帯を開き、彼女の名前を呼びながら応答する。電話口から、落ち着きのない声が飛んできた。
『傲慢様、どこにおられるかわかりませんが、今すぐその端末でテレビをご覧になってください! チャンネルは何でも構いませんから!』
「あ、ああ、わかったけどお前」
 わけのわからぬままに一方的に用件だけ捲し立てられ、傲慢が言い返す前に電話は切れてしまった。不可解だと眉間にしわを寄せながら、言われた通りに端末を操作する。それを覗き込みながら虚飾が訊ねた。
「彼女は何と」
「いや、テレビを見ろって言われたんだけど……ッ!?」
「これは!?」
 画面には、白いローブを身に纏う男の姿があった。傲慢は、一目でその男が原罪だと、理解した。
『――人間の皆さん、はじめまして。そして、マキア街の獣人の皆様方に置かれましては、お久しぶりの方も数多くいらっしゃることでしょう。私の名はマルス。一部では白頭鷲や原罪という名で呼ぶ者もいるようですが……さて、本題に参りましょう。本日私がこのような形で貴方達の前に姿を現したのは他でもありません、お伝えすべきことがあるからです』
 冗長な挨拶に二人は顔を顰める。色欲が「チャンネルは何でも構わない」といった通り、いくらチャンネルを変えてみても、同じ映像が映し出されるばかりだった。原罪は淀みなく喋り続ける。
『――獣人の皆様、おめでとうございます。皆様は今日、数百年と耐え続けてきた苦しみから、解放されるのです! 私は今日この日のために、獣人助けと称しながら自治区内の各所を回り、大がかりな舞台装置を作成して準備を続けてきました。私の『魔術』をもって、これから皆様には特別な力を手にしていただきます。古来より言い伝えられてきた、人としての本能、大罪です! それは、何者にも屈しない力です。その力を獣人が手にした時が、人間の時代の終わりです。初めはマキアから。そしてミラン大陸全土、そしてこの星に住む全ての人間を、獣人は駆逐する! 今こそ、積年の恨みを解き放つ時! そのしっぺ返しを、罰を、その身をもって受けるのが愚かな人間の運命――』
 傲慢は黙って携帯の画面を閉じた。そのまま、ポケットの中にそれをしまう。
「いいのか」
「最後まで聞くもんでもねーんだわこんなもん」
 そう答えながら、先刻投げ捨てたリュックを拾い上げ、背負う。
「どこに行けばアイツを殴れるかわかるか?」
 そう問われ、虚飾は顎を触りながら思案した。
「原罪が自治区内に『魔法陣』というものを張っていたのは聞いている。あいつがいるとすればその中心部、尚且つ電波通信のジャックが可能な高い場所――」
 虚飾が顔を上げる。彼が指さした方向を目で追うと、高く聳え立つ鉄塔が見えた。

 『憂鬱の様子が見たい、俺も後で追う』と言って別れた虚飾を置いて、傲慢は街中を走っていた。あんな放送があった直後だ、案の定街は混沌の最中にあった。原罪の声明に歓喜を上げる者、混乱し暴動を起こす者、それに怯える者。その喧騒の中、人ごみをかき分けながらなんとか前に進もうとするが、まだ自治区内にも到達していない傲慢も、例外なく他の獣人と同様に人間から幾度となく襲われてはそれをいなしていた。
「くっそ、キリがねえな」
「傲慢!」
 苦虫を噛み潰すような顔をしたところで、自分の名を呼ぶ声に気づく。振り返れば耳障りなブレーキ音と共に、バイクに乗った男が現れた。男がヘルメットを外し、その顔を見せる。見慣れた仏頂面と眼鏡が現われた。
「憤怒! お前、なんでここに」
「話は後だ、乗れ。向かう先は七顚屋か」
 ヘルメットを投げ渡し、憤怒は傲慢に呼びかける。
「いや、七顚屋に寄ってる暇はなさそうだ。あそこまで直行で連れていってくれよ」
「……なるほど、仕方あるまい」
 バイクの後ろに跨りながら傲慢が指さしたのは、古い電波塔だった。憤怒は傲慢の思惑を察すると、エンジンを吹かせた。
 憤怒のバイクが人も車も追い抜いていく。そのうち自治区内に入ったのだろうか、人ごみは比較的落ち着き始め、憤怒は更にスピードを飛ばした。勢いを増す風に顔を背けた傲慢の目に、ハンドルを握る憤怒の手が映る。動かなかった筈のあの左手が、しっかりとグリップを掴んでいた。よく見れば、腕から伸びるサポーターのような機械がその手を覆っている。出ていった後にどうにか入手し、リハビリを続けていたのだろう。成る程、暴食も憤怒も互いの見えないところで自身の弱さと向き合っていたとは、つくづく不器用なコンビだと傲慢は笑った。
 前を向いたまま、憤怒が言う。
「その様子だと、自分を取り戻したようだな」
「何つった! お前の声ちっせえから聞こえねえよ!」
「なら構わん!」
 などと通じない会話をしているうちに、目的地が目の前に迫る。
 門の前で豪快にバイクが急停止し、傲慢が飛び降りた。そのまま駆けだそうとしたが、頭の違和感に気づき足を一度止めて踵を返す。すっかり被っていることを忘れていたヘルメットを脱ぎ、投げながら憤怒に声をかけた。
「ありがとな、最後までわがまま聞いてくれて!」
「私はこれで最後にするつもりは毛頭ないんだがな」
 予想外の返答に傲慢は面食らった。憤怒は投げ返されたヘルメットを片手で受け止め、いつもと変わらない真剣な表情で続ける。
「これから先も貴様の無理難題に付き合わせろ。そうでないと、あの土下座の元が取れんからな」
「……そーかよ」
 何も言わずに帰っていくもんだと思ってたけどな、と苦笑しながら、傲慢は七顚屋に残されていた彼のマフラーを思い出す。暴食からのプレゼント、彼にとっての宝物。きっと、初めから本気で出ていくつもりはなかったのだろう。そして今、こうして釘を刺された以上、二度目の解散宣言など到底許されそうにもなかった。改めて自分は仲間の事を侮っていたものだと、喉の奥から笑いがこみ上げてきそうだ。
「あいつらを頼んだ!」
 そう言って傲慢は今度こそ電波塔へと走り出す。彼の背後からはまるで了承したかのようにエンジン音が一度鳴らされた後、走り去っていくバイクの音が聞こえた。

 その電波塔は数十年前に役目を終えたのだと、話に聞いたことがあった。昔に、七顚屋へ清掃の依頼をしてきた男が言っていたことを思い出す。過剰に高い建造物が少ないマキアの街ではいっとう存在感を放っており、当時は感心したものだった。
 一方で、傲慢と共に仕事に出ていた色欲や強欲の苦笑もよく覚えていた。今こうして中に入ってみると、そこが街のシンボルとしては機能していないことを痛感する。草木に侵食されたエントランスホールの内装は、塔が人の管理下から離れていることを示すには十分だった。マキアの獣人自治区のど真ん中に位置していたことも原因の一つだろう。壊す費用も、保存の手間も、リスクを犯してまで誰も払えなかったのだ。
 ダメもとでエレベータに近づき、ボタンを数回押して機能していないことを確認すると、傲慢は傍にあった階段を駆け上がった。誰もいない螺旋階段で、鉄板を蹴る足音だけが響く。みるみるうちに高度を上げていく景色を横目に、傲慢は走り続ける。ガラス張りの心もとない壁から、街の全部が見渡せた。王様気分で統治していた小さな七顚屋の外に広がる、大きな世界が幾度となく彼の目に飛び込み、その重みを実感する。それら全ての行く末を握る者が、この先にいる。
 ふと傲慢は、自分以外の足音に気が付いた。それは下から追ってくる虚飾のものではない。コツリ、コツリと、上から、ゆっくり下りてくる。足を止めて、その先を見た。
「……やっぱり、きたね」
 鈴の音のような声と、ひらり蝶のように舞う黒いリボン。階段を駆け上がったその先で、嫉妬が蛇の舌を覗かせていた。
 嫉妬に上から見下されているという構図がどうしても気に入らなかった傲慢は、引きつった笑みで彼女を睨みつける。
「勿論だ」
 口元では笑顔を作りながら、傲慢の脳裏を先日対峙した際の記憶がちらちらと過ぎっていた。首を絞めるあの感触が、今でも鮮明に思い出される。密かに速くなりつつある脈を自覚しながら、呼吸だけは平時を保とうと細く息を吐く。
 目を合わせないように、しかし視界から見失うことのないように。彼女の姿を見る。嫉妬の口が動いた。
「『傲慢』のチカラもなくなっちゃったキミに、できることはもうないよ?」
「できるできないじゃねえ。やるかやらないか、オレが選ぶのはその二択だけだ」
「じゃあ、アタシがその選択肢を一つに絞ってあげる」
 傲慢は主導権はこちらにあると言わんばかりの嫉妬の物言いに痺れを切らしていた。そうして、思わず彼女のその顔を直視して初めて、とあることに気づく。
 そういうことか。ふっと鼻で笑った傲慢は、意を決して階段を一段上った。
「……どういうつもり?」
 傲慢は何も言わない。嫉妬を試すかのように、彼女から目を離さない。左足が一段、傲慢の体を上に運んだ。
「次絞めたら今度こそ死んじゃうよ?」
 右足を次の段に乗せる。
「帰ってよ」
 休むことなく足は動き続け、離れていた嫉妬との距離が縮まっていく。
「こっち来ないでよ」
 とうとう傲慢は嫉妬の目の前に立つ。動揺する彼女の胸倉を掴んで顔をぐいと引き寄せた。
「ね……」
「そんなに嫌なら、オレと目ェ合わせてさっさと殺してみろよ」
 額が触れそうなほどに近づいたが、それでも、嫉妬は傲慢と目を合わせることができなかった。
 それが、彼女の本心だった。
「……みんなが悪いんだよ」
 観念したように、嫉妬がぽつりと呟いた。
「アタシばっかり、奪われて。でも『みんな』は、街中の『みんな』は変わらずに幸せな毎日を送れてる。不公平だって思った。だから、『みんな』からアタシも奪い返したら気が済むのかなって、アタシ、ずっとそう思ってた」
 震える声で、一つずつ言葉を選んでいるようだった。傲慢は首元を掴んでいた手を離し、彼女の隣に立った。
「パパね、こう言ったの。だから世界ごと壊してしまうんだよって。人間さんがいなくなれば、獣人のための世界ができる。そしたらアタシが好きだったものも嫌いだったものも、もう何もこの手で壊さなくたって良いようになるでしょう? 崩れて消えていくたくさんの幸せを、上から眺めていたら、きっと気持ちがいいって。アタシもそう思った」
 嫉妬はようやく顔を上げ、傲慢を見やった。
「でもね、違ったみたい。最近気づいたの。アタシ、きっと誰かから何かを奪いたかったんじゃなくて、ただアタシがそれを欲しかっただけなんだって。だから、いくら奪ったところで、アタシの虚しさは変わらないし、満たされることもなかったんだ。だって、本当に欲しいものは、ずっと手に入らないままなんだもんね」
「……お前の欲しいものは、なんだ」
 傲慢が問う。
「パパが」
 嫉妬が、階段の先を見た。
「パパが、ちゃんとアタシのこと見てくれて、それで……これまでと変わらないこの街で、七顚屋の皆と、笑える世界が、欲しい!」
 掠れた声で、はっきりそう叫んだ。その回答に、傲慢は満足した。「そうか」と返事をして、嫉妬の横を通り過ぎ、最上階に向かおうとする。
「どうするの」
「オレは天下の『傲慢』サマだからなあ、お前の望むもん一つ与えてやることくらい造作もないわけ」
 嫉妬には、まだ彼の後を追うことはできなかった。ただ、その小さな背を目で追いながら、初めて彼女は彼という存在の大きさを見た気がした。
 背を向けて、軽くどこかへ出かけてくるとでもいうようなノリでひらひらと右手を振る傲慢を見ながら、嫉妬は思い出したように、最後に一言、こう叫んだ。
「ね、アタシのことぶん殴って連れ帰ってくれるって言ってたじゃん、ウソつき」
「わりーけど、殴らないで済むんならオレだってそっちを選ぶぜ」