#6 DO YOUR BEST
深い森の中に人が通った跡のある獣道を見つけ、傲慢は汗を拭いながら息を吐いた。
獣人の集落であるイオ村は人間社会とは隔絶されており、安全が保障されている一方で村人の殆どは村の外に出ることなく一生を終える。その大きな原因は、村の位置する場所にあった。七顚屋が所在するマキアの街から故郷のイオまでの道のりはおよそ百キロメートル。徒歩でこの険しく長い山道を越えるには丸一日の時間を要するのだ。加えて道路が敷かれているわけでもないため、車での移動も不可能である。
街へ下りた時と同様に山の中で一度野宿をし、約二十時間の徒歩移動の末、ようやく彼は眼下に人家を認めたのだった。懐かしい景色に自然と笑顔がほころぶ。
傲慢は疲弊していた。それは長らく離れていたふる里に再び足を踏み入れることへの不安からくるものでもあったが、何より道なき道は彼の無尽蔵に近かった筈の体力をきちんと奪っていた。
だから、なんてことない足元の罠にも気が付かない。
「うおおおおお!?」
右足に人工物を踏んだ感触が伝わった瞬間、視界が反転し勢いよくその身は宙へと吊られてしまった。体が逆さまになる際にリュックも刀も地面に落としてしまい、手は届きそうにない。傲慢は自身の下半身を見上げる。右足に金属製の縄がくくられ、その縄は木にひっかけられていた。お手製の中型獣用狩猟罠だろう。昔はよく作ったものだと感慨に浸りかけるも、遠くからくる人の声を耳にし急いで脱出方法に思考を巡らせる。
「今の声聞いた? きっとすごい大物だよ」
「まさかおまえの罠にかかる動物がいるなんて、そいつもとんだ間抜けだよなあ」
「お腹空いたし早く持って帰ろう」
おい誰が間抜けだ、と内心怒りつつも身体を揺らす。一晩飲まず食わずで腹が減ったのはこちらも同じなのだ。飯にされるわけにはいかない。
ガサガサと茂みをかき分ける音。近づいてくる方向を見やれば、低木の間から姿を現したのは年端のいかぬ子供である。先頭に立つ少年と目が合った。あんぐりと口を開けて、こちらを見ている。
「あっ」
「おい早くこっちこい!」
「ぐ、ぐ、紅蓮の兄貴だ!」
口々に騒ぐ三人の子供が自分の名前を呼んだことに驚き、傲慢は上半身をなんとか起こして正常な視野にて彼らの顔を確認した。見覚えがある。よく面倒を見ていた村の子供たちだ。
「お前ら、タヅタにツクシにシュウか!? オレのことがわかるのか!?」
ツクシと呼ばれた少年が答える。
「わかるも何も、兄貴が旅に出たのなんかつい三年前くらいのことじゃない。誰も忘れたりしないよ」
「ほんとに紅蓮の兄貴だ! 生きてたんだ!」
「いやいや、紅蓮の兄貴ならタヅタのこんなわかりやすい罠にかからないだろ」
「とんだ間抜けの飯で悪かったな」
シュウの発言に当てつけのように返しながら、傲慢は自分を知る人がいたという事実に安堵していた。自分はあの日の事故で自らの名前すら忘れてしまっていたものの、皆の記憶から紅蓮という少年は消えていなかったのだ。改めて、自身が他の罪代とは違う成り方をしたのだということを自覚する。
それは、同時にこれまで紅蓮に関わる人々を蔑ろにしてきたことも意味するわけで、恐る恐る、もう一つの懸念を尋ねた。
「……母さんは、どうしてる」
「火蓮さん? 元気にしてるよ、ねえ」
「そうか! いやあ安心したぜ。あの鬼ババア元気にしてっか、オレがいない間にくたばってたらどうしようかと」
タヅタの言葉に安堵し、軽口を叩いているとみるみるうちに三人の顔が青ざめていく。どうしたのだと宙づりのまま眉を顰める傲慢の背後を、シュウが控えめに指さした。訝しげに首を回らすと、自分のそれとそっくりな赤髪が視界に入る。ようやく理解した傲慢の首筋を冷や汗が流れた。
「ババアはこの通り元気だよ、クソ息子!」
「いてェ!」
顔面に一発、獅子の脚から繰りだされる上段蹴りを食らって、そこから先の記憶はない。
目を覚ますと、懐かしい匂いがしていた。
薄い布団から身を起こし、辺りを見回してようやくここが自室だと気づく。私物の少ない室内は、最後に見た時と全く同じ状態が維持されていて、家を出た日のことがまるで昨日のように思い出された。それでいて、久しぶりの自分の家はもう何十年も訪れていなかったかのような気分にもなり、あやふやな時間感覚に傲慢は未だ夢見心地だった。
丁寧にたたまれたジャケットと、壁にもたせかけた荷物を傍目に部屋を出る。
傲慢の部屋は平屋の廊下を突き進んだ一番奥にある。裸足で板張りの床を踏みつけながら、間取りを思い出していく。右手には母の部屋、左手には空き室。そして最後の襖を開けて、傲慢は匂いの元に辿り着く。部屋の中央、囲炉裏の上では鍋の用意がされていた。
障子をあけ放って外の景色を眺める。七顚屋も喧騒とはやや離れた場所にあったとはいえ、一切の無機物のない景色は随分と静かに思えた。マキアのレンガ造りの民家とは違う、木製家屋ならではの大きな開口部を通り抜けていく風は気持ちが良い。子供のころは夏にこの部屋で寝転がっていると、母に蹴られて働かされたものだったと評価に困る想い出が蘇る。額のゴーグルを外し、胡坐をかいて暫くくつろいでみれば、串刺しの肉を手にした母が珠暖簾をくぐった。
「なんだい、思ったより目覚めが早いじゃないか。よく眠れたかい」
「おかげさまでよおーく眠れたぜ。どんくらい寝てた?」
「昨日の夕方から今日の昼まで、ざっと二十時間くらいかね」
げえ、と声を漏らした。通りで体が重い筈だ。嫉妬に殺されかけた時といい、ここ最近死んだように長い時間眠り続け――否、気絶してばかりだ。就寝・起床時間を定時に決めている傲慢としては体内時計が狂いそうであまり好ましくない状況である。
母が串を囲炉裏の火の回りに刺していくのを眺めながら、傲慢は姿勢を正して正座をした。母の手元を見つつ話を切り出すタイミングを伺う。最後の串が突き立てられたところで傲慢は声を上げた。
「あのさあ……」
「なんだい」
傲慢の鋭い眼光は母親譲りだった。その母の真っすぐな視線が彼に向けられる。
息を吸って、床に手をつき、頭を下げた。
「長い間、何の連絡も入れず帰らないでいて、すみませんでした」
沈黙が流れ、室内には炭の爆跳の音だけがパチパチと響いていた。数秒間、水中に潜っているかのように呼吸を止めていると頭上からああ、と母の声がする。
「寧ろわたしゃ、お前に帰ってきてほしいだなんて微塵も思ってなかったけどね」
「え」
まさかの発言に傲慢は思わず顔を上げ、目を丸くした。
母は茶椀を引き寄せ、鍋の中身を掬い入れていく。なみなみと溢れんばかりに注がれたスープが目の前に置かれた。母は加減というものを知らない。いつも中身をたっぷりと満たそうとする。
「お前はこんな狭い世界に収まるべき子じゃないからね。村社会の中で一生を終えてほしくなかった。紅蓮が言い出さなきゃ母さんから先に、お前に旅にでも出るように言おうと思ってた」
「そ、そんなこと、聞いてねえよ」
「言ってないからね。……言えなかったさ。父さんみたいに、本当に帰らない人になるかもしれないと思ったら、一人息子を谷に突き落とすようなことはできなかった。手の届く、安全な場所に囲い込んでおくのか、自由にさせてやるのか。どっちがお前の為になるのかは、母親の私にはとてもじゃないが決められなかった」
自分の分をよそい終わった母は、すっかり色づいた肉を囲炉裏から引き抜いて傲慢に差し出して言った。
「よく、生きて帰ってきたね」
受け取って、傲慢は良く焼けたそれを口に運んだ。香ばしさが口の中に広がった途端、彼の目は潤み始め、咀嚼した肉を飲み下したときには嗚咽が止まらなかった。傲慢の、生まれて初めての涙だった。
母は何も言わずスープを飲んでいる。
「……なあ、母さん。オレ、ほんとは街に下りてすぐに、死にかけた。都会はさ、強いか弱いかじゃなかったよ。上手くやった奴が、いつだって勝つ世界だったんだ」
「そうかい」
「でも。それでも、上手くやるよりも、オレはやっぱり強さで一番が獲りたかった」
目元を拭い、茶碗に手を付ける。出汁を全て呷ってから、再び傲慢は話し始めた。
「それで……向こうで、仲間ができたんだ。皆、同じように、自分の力で強く生きてきたやつらでさ」
「良かったじゃないか」
「同じようにしていた筈なのに、いつの間にか、オレもそいつらのこと、大事にしまおうとしてたよ。最近やっとそれに気がついて、逆に突き放したら、仲間の一人にすっげえ怒られて」
「そいつもお前たちのことを大事に思っていたんだろうね」
「別のやつにもそうやって慰められたよ」
「それでおめおめ土産もなしに実家へ帰ってきたってのかい? 情けない息子だこと」
「違わなくもないけど言い方があるだろ!」
傲慢は茶碗を置いた。すっかり空腹は満たされていた。
「清算しにきたんだ。宣言したこと全部嘘にして、何もここに持って帰れなかったこと。故郷のことも忘れて、向こうで好きに暮らしていたこと。それでも、改めて頼みたくて」
「戻るんだろ」
目の前では母が酒を盃に注いでいた。わかりきっていたことかのように答える彼女の表情に、今度は傲慢も驚くことはなかった。
「今日顔を見れただけで十分だよ。お前はもうここには帰ってくるな。その代わり、だ」
彼女の顔ほど大きな盃の酒は、ものの数秒で飲み干される。
「自分のしたことの後始末は、きっちりやりな」
「……ありがとう、母さん」
「礼を言われる筋合いはないよ。食い終わったんならさっさと行きな」
「そうかよ」
傲慢は立ち上がり、荷物をとりに一度自室へと戻った。見納めかと思えば名残惜しくもなるかと期待したが、長居する気は一切湧かなかった。さっさとジャケットを羽織り、リュックを背負い、刀を携える。そして最後に、左手の空き室だけを覗き見て、静かに襖を閉めた。
玄関では既に母が腕を組んで待ち構えている。よく見れば、手には置いていくつもりだった父の形見のゴーグルを持っていた。彼女はそれを傲慢の胸に押し付けながら言う。
「置き土産もいらないよ」
「ほんと、感傷もクソもねえ親だこと」
押し付けられたそれを笑いながら装着する。きつめのベルトに締め付けられ、頭が冴えわたるのを感じた。思えば、向こうではいつだって彼はこのゴーグルと共にあった。顔も思い出せない今はもう亡き父が、ずっと傍で見ていてくれたのかもしれない――そんな感慨に浸るのも今日で最後にしよう。あの街では、こいつは形見でも思い出でもなく、自分自身の象徴なのだから。
「あとさ」
履き古したボロボロの靴に足を突っ込みながら、傲慢は思い出したように言った。
「オレが出ていった後……『アイラ』はどうしてた?」
母は笑顔を崩さないまま、こう返した。
「アイラ? それは、お前の友達か誰かの名前かい」
「探したぞ」
数日ぶりに見るペストマスクが、腰の刀を引き抜いた。相変わらず表情が伺えず、調子が狂う。黒く塗られたレンズの向こう側では、きっとこちらにこれでもかというほどの憎しみを向けているのだろう。傲慢は、山道に立ち塞がる虚飾に対しそのような感想を抱いた。
「どうしてここがわかった」
傲慢の声に、鳥の仮面がせせら笑う。
「どうしてだと思う。あんたがここに来ると、憂鬱から訊いたのだ。果たして、憂鬱は誰から聞いたんだろうな……聞くところによれば、七顚屋も内部分裂したそうじゃあないか。かわいそうに、故郷を見捨てたあんたは、ついに仲間から見捨てられたわけだ」
「それを指示したのがオレだと言ったら?」
虚飾がピタリと止まる。
「オレが怠惰にそう伝えるように頼んだって言ってんだよ」
「……真意を量りかねるな」
訝しむ虚飾をよそに、傲慢はリュックを投げ捨て、刀の柄に手を掛けた。もう一つのけじめをつけなければいけない相手に、その刃を向ける。
「お前は今日、今度こそオレを殺しに来たんだろ。やろうじゃねえか、オレもお前に話したいことが山ほどある」
「俺からあんたに言うことは何もないがな!」
冷ややかな空気が支配する部屋の中で、嫉妬は三角座りをして父の背中を見ていた。
嫉妬はここ数年、父の顔をまともに見たことがない。母がこの世を去って以来、記憶にある父の姿は殆ど背を向けたものばかりだ。それに対して、寂しいとか、辛いだとか、そういう感情を抱いたことはない。嫉妬はそれを、自分たち家族が受け入れるべき運命なのだと結論付けて納得していた。
だが今になってわかる。父は、原罪には、それを受け入れることはできなかった。だから、自分たちが世界に適応するのではなく、世界を自分たちにとって都合の良いものに変えようと今日この日まで心を削ってきたのだろう。
「嫉妬、もうすぐだ」
原罪が歓喜に満ちた声を上げる。
相槌より先に、どうして名前で呼んでくれないの、と、そればかりが頭の中を埋め尽くした。パパだけはちゃんと知っていたでしょう、アタシにも『ナナ』って名前があったことを。
「私たちが受けた苦しみを、同じように味わうがいい。これは人間がいずれ受ける運命にあった罰なのだ」
パパは自分のことを『私』って呼んでたっけ? パパは、こんなに怖い物言いをする人だっけ? ママはよく「嫌な事をされても、人に仕返しちゃだめよ」って言ってたけど、そんなことも覚えてないのかな。そもそも、悪いのは誰だろう。あの日ママを殺した人間? 人間に反感を買ったアタシたち? 獣人は嫌いだって初めに言い出した人? 人に危害を加えて野蛮なイメージを作っちゃった獣人? こんな世界を生み出した、いるかいないかもわからない、神様?
アタシたちのやりきれない怒りは、後悔は、憎しみは、嫉妬は、いったいどこに向かっていくべきなのだろう。
それを考える度、思い浮かべるのは七顚屋の皆の姿だった。彼らもまた、同じように迫害されてきた哀れな獣人だった。同類だった。だったのに、彼らは自身の苦しみをどこに置いて来ることができたのだろう。どうやって諦められたのだろう。羨ましくて、仕方がない。
一番気に食わなかったのは傲慢だった。傲慢には記憶がなかった。それ故だろうか、何にも囚われずに、獣人にも人間にも属そうとせず、今を思い通りに生きていた。如何なる人の悪意も邪魔も撥ね退けて、自己を表現することを世界から許されているような彼のことが、羨ましくて仕方がなかった。だから、そんなキミの真似をしてみたのに。過去を捨てた振りをいくらしてみたって、キミのように自由にはなれなかった。
「やだよ……」
誰にも聞こえない声で独り言ちる。
「アタシ、こんなこと、望んでなんか、なかったよ」