#5 HOW ARE U
お世辞にもあまり綺麗とはいえないリュックサックに、荷物を詰めていた。何を持っていくべきか一晩中思案していたが、用が終わればさっさと帰るつもりだったので、大層なものはいらないだろうと思っていた。数日間の宿泊を考慮して数枚の着替えを入れ、道中の間食に山で採った果実を数個放り込む。こんなものか、と思った。まるでどこかにキャンプしに行くようなものではないか。あまり実感の湧かないまま、部屋を後にした。
外へ出ると弟がいた。姿かたちから性格まで何一つ似ていないその弟が、刀をもって駆け寄ってくる。
「忘れてるよ、これ」
「悪いな」
受け取って、別れの挨拶を交わす。
「これも持っていきな」
続けて、窓から何かが飛んできた。器用に片手で受け取る。ゴーグルだ。母はよく語った、これは父の形見なのだと。
「行ってくるよ!」
「ああ行ってきな、紅蓮!」
紅蓮と呼ばれた少年は、ついにその村に帰ってくることはなかった。
道端の石ころ同然に倒れていた傲慢の身体を色欲たちが持ち帰ってから、数日がすぎた。
大方体調を戻した憤怒であったが、やはり左腕は動かなかった。目が覚めて騒動の一部始終を耳に入れるなり、何もしないことに落ち着くことができなかった彼は案の定起き上がる。感覚のない左腕をアームスリングに通していつも通り活動しようとするも、今度こそ怠惰に休養を強いられるのであった。
暴食はといえば、未だ憤怒に顔を合わせることができずに自室に引きこもっていた。外に中々出ようとしないので色欲が五度の食事を持っていくのだが、どういうわけかいつも少し残して皿が返ってくる。それに不信感を覚えた色欲は何度か部屋に立ち入ろうとするが、「なんでもないの、だいじょうぶなのだわ」の一点張りで追い返されてしまった。時折、何か暴れているような物音が聞こえる。
相も変わらず、傲慢は目を覚まさない。生きていることは確かだが、死んだように動かない。当然、嫉妬は戻ってこない。
そんな状況が続く中で七顚屋を通常営業できるはずもなく、しかし大所帯を養うには貯金が心もとないため、色欲、強欲、怠惰の三人は、受ける依頼を絞ってなけなしの稼ぎを得ていた。
そして三日経った日の朝のことだ。
カジノから朝帰りをした強欲が、眠い目を擦りながら七顚屋の玄関を潜ると、二階から叫び声とともに激しく物が叩きつけられる音がする。突然のことに目が覚めた強欲が金の詰まったアタッシュケースを足元に落としたところで、事務室から色欲と怠惰が飛び出してきた。慌てて彼らの後を追うと、辿り着いたのは傲慢の自室の前だ。
一同は扉の方を見やり、顔を見合わせる。
「なんだなんだ、やっとお目覚めかい」
「入ってもいいのかな……」
「傲慢様の安否確認が最優先よ」
などと小声で話し合う。
「そうは言ってもだな、今の聞いたか? 万が一あいつが暴食の嬢ちゃんみたいになってたら俺っちたちにゃ手はつけられんだろ」
「お嬢がなんだって」
素っ頓狂な声を上げた強欲が振り返ると、そこには怠惰に寝かされていた筈の憤怒が立っていた。躊躇っている強欲と怠惰を押しのけ、ドアノブに手をかけていた色欲を下がらせる。
「もたもたしとる場合か。おい、傲慢。入るぞ」
そう大声で呼びかけながら、憤怒は思い切りドアを開いた。
扉の向こうの光景に、一同は唖然とするほか無かった。そこには息を荒くして立ち尽くす傲慢と、どうしようもなく荒れた部屋の様子が見られた。日ごろ乱暴な物の扱いだけはしない彼の異様な様子に、身構えざるを得ない。傲慢の無事が確認できた以上近づくこともないと判断した先頭の憤怒は、それ以上足を踏み入れることはしなかった。
「起きるなりそのザマとはな」
「憤怒、言い方をもう少し考えなさい」
「あんちゃん、一体どうしちまったんだ」
肩で息をし、頭を抱える傲慢がその場に頽れる。ただでさえ背の高くない彼の姿が、いつも以上に小さく見えた。
「全部、全部思い出したんだよ」
膝を折ったままの傲慢が、背の高い憤怒を見上げる。憤怒は頭を抱える傲慢の指の隙間から覗くその瞳に気づいた。彼の左目からは黄金色の光はとうに消え失せている。それを見て、傲慢が既に『傲慢』としての力を失っていることを理解した。奪われたのだ、嫉妬に。
「なんでオレがここにいるのか。あの日、原罪に出会う前に何があったのか。どうしてずっと、記憶を取り戻したかったのか。全部、全部……」
蹲る傲慢の元へ、色欲が駆け寄った。
「傲慢様、落ち着いてください。大丈夫ですから」
「何も大丈夫なんかじゃない! オレは、しなきゃいけないことを放棄して今まで遊び惚けてた。それどころか、お前らを巻き込んで、責任も持てないのにオレの足元に縛るだけ縛って、当のオレ自身は王様気取りでふんぞり返ってただけじゃねえか!」
立ち上がった傲慢が言う。
「なあ、全部終わったんだ。家族ごっこはもう、終わりにしないか」
「どういうことですか」
「七顚屋を、解散しようと思う」
思いもよらぬ言葉に、その場の空気が凍った。
目の前で主の発言をきいた色欲は彼を見上げたまま動けずにいた。彼の言葉の意図するものが、どうしてそんな結論に至ったのかが理解できなかった。あの日、「今日からここが、オレたちの帰る場所だ」と、そうやって強欲と共に肩を組まれた時の面影はどこにもない。
怠惰は息を呑んで、視線を落とす。
色欲と同じ台詞を呼び起こした強欲もやはり、口を開いたまま瞬きするばかりだった。そんな彼だけが、眼前で震える憤怒の様子に気づいた。憤怒は震える右手をゆっくりと持ち上げ――
「それが他人の人生を弄んだ男の言葉か!」
思い切り殴られた壁が上げる鈍い音に、皆の視線が集まった。
「黙って聞いていれば遊びだの巻き込んだだの、挙句の果てには我々を縛っていただと? 貴様にとって私たちはその程度の存在か」
傲慢に向かって歩みを進める憤怒が狼の姿に変化していく。左腕を支えていたサポーターは筋肉の肥大に耐えられず壊れてしまった。破れた包帯を毟り取りながら、屈んだまま動けずにいる色欲の横を通り過ぎ、傲慢の前に立ちはだかる。それを見上げた傲慢の顔面に、身長三メートルの巨体が右ストレートを繰りだした。甘んじてそれを受け入れたのか、そもそも躱す気力すら湧かなかったのか。傲慢の身体が、宙を飛んで壁に叩きつけられた。
「我々のこの二年を、『家族ごっこ』などという言葉で片づける貴様を! 私は、赦すわけにはいかんのだ!!」
ふらふらと傲慢が起き上がる。よろける足で憤怒の前に再び戻ると、今度は傲慢が大きく腕を引いた。
「だから、お前たちのその二年を、今日で終わらせてやるって言ってるんだろうがよ!」
傲慢のアッパーカットが頭上、憤怒の顎に刺さる。これでも病み上がりの身、ましてや一度怪我を負った部位だ。それでも憤怒は歯を食いしばり、微動だにせず受け止める。痛くも痒くもない。今痛みを感じているのは、自分ではない。色欲が、強欲が、怠惰が、そして暴食が。彼らがきっと、心に傷を負っている筈だった。
「あんたら何やってんのさ!?」
傍で腰を抜かしていた色欲を後ろへ引きずりながら強欲が制止するも、二人は聞く耳を持たなかったようで、そのまま殴り合い、取っ組み合いを始めてしまった。
「大体、その様子だと蛇女に『傲慢』でも奪われたのだろう。原罪が何をしでかすかわからん今、貴様の軽率な行動の責任を貴様自身が取ろうとせずにどうするつもりだ!」
憤怒が傲慢の胸倉を掴んで投げる。
「それは悪かったと思ってる! でもこれから世界ごと変えようとしてる奴なんかを、オレ一人の力で止められるわけねえんだから、今更どうしようもないだろ!」
「そうか、そうだな! 今の貴様では原罪や虚飾はおろか、この私にすら打ち勝つことなど到底不可能だろうな!」
打ち付けられた床から体を起こそうとする傲慢の顔から三センチ右を、憤怒の爪が掠めて、そこで全てが終わった。
「『傲慢』を持たない貴様がここまで矮小な存在だと気づけなかった自分に羞恥すら感じる。見損なったぞ」
既に人の姿に戻り傲慢を見下げていた憤怒は、仰向けに転がったままの彼を放って、踵を返す。後方に下がっていた色欲に近づくと、その首からマフラーを取り外し、彼女に押し付けた。
「お嬢を頼む」
「どういうことよ」
「彼奴の望み通り、この家から出ていく以外に何がある」
憤怒はその日を以て、七顚屋を出ていった。
翌朝の食卓は惨憺たるものだった。
腹を満たすにはやや不十分なパンを胃に収めた傲慢に、色欲が声をかける。
「傲慢様。今日の業務は如何なさいますか」
「今日は休みだ。……明日も休み。その次も。言ったろ、七顚屋は終わりだって。お前らも、出ていくなら今のうちだぞ」
「ご、ごーまん!」
怠惰が悲痛な声を上げる。
「だめだよ、憤怒さんは、どこに帰ってくればいいの?」
「知らねえよ……少なくとも、ここじゃない。もうオレの顔なんか見たくないだろ」
傲慢はそう言い残してさっさと出ていってしまった。怠惰は立ち上がりはしたが、それを追い、止めるまでには至らなかった。
入れ違いに、傲慢が通ったのとは別のもう一つのドアから微かに音が聞こえる。
「おはよう、ございます、なのだわ…」
少し開いた引き戸から、大きな瞳が覗き込んでいる。数日ぶりに食堂へと顔を出した暴食だった。暴食は中にいるメンバーを確認すると、室内におずおずと入ってくる。おはよう、と優しく声をかけてくれる色欲や怠惰の声に、少女はいつもと少し違う空気を感じていた。
席に着いたところで、違和感の正体に気付く。
「あの、あにさまは……」
皆が押し黙る。その沈黙で察することができないほど、暴食は子供ではなかった。
「わたし、あにさまにひどいことをしてしまったから、もう二度とおなじことはしないようにと思って、ずっとこの子たちをおさえる……ううん、お話するれんしゅうをしていたの」
見れば、暴食の持つ二つの頭に常に着けられていた筈の口輪が無い。代わりに、彼女の指には咬創と絆創膏が増えていた。彼女は、一人で自らの抱えるものと戦っていたのだ。色欲は、この数日間暴食が一人で何をしていたのかを理解すると、居ても立っても居られず彼女を抱きしめた。置いていかれることの苦しさを、幼い少女が背負う痛みの重さを、色欲はよく知っていた。あの馬鹿、と震える声で呟いたその言葉を、暴食が聞き取ったかはわからない。
「もう、ひとりでもだいじょうぶってところを見せて、安心させてあげたかったの。でも、すこしおそかったみたい」
「嬢ちゃん……」
スタンドに掛かったままの、彼のマフラーが揺れていた。
「ごーまん、入ってもいい?」
日を改めて二日後。色欲の元へ寄った後、自分の部屋に戻りがてら怠惰は傲慢の部屋の前を訪れた。ドア越しに、「勝手にしろ」という投げやりな声が飛んできたので、怠惰は言われた通り勝手に入ることにした。
そっとドアノブを回して押して中の様子を伺うと、傲慢はベッドに腰掛けて床と睨めっこをしているばかりだった。部屋は先日の、傲慢と憤怒による取っ組み合いの騒ぎによって散らかったままである。木製のラックは倒れたまま、布団の中からは羽根が飛び出し、壁には亀裂が入って風が微かに吹き込んでいた。仕事もサボっている今、時間はいくらでもあるのに、片づけるだけの心の余裕はないらしい。
しかし、今日は彼の部屋の清掃員になりに来たわけではない。そもそも、怠惰も整理整頓という言葉とはほど遠い存在である。それらには一切手をつけることなく、傲慢の隣に近寄っていった。
「勝手にしろって言われたから、勝手に隣に座るね」
「……おう」
怠惰が腰を下ろす。柔らかな感触が尻を包む代わりに、男二人分の重みでベッドが音を立てた。
隣に座ったところで、怠惰は傲慢に対して特に何をするわけでもなく、抱えていたスケッチブックを開いてさらさらと何かを描き始めるのみだった。依然顔を伏せたままの傲慢の耳に、鉛筆と紙が擦れる小気味いい音だけが入ってくる。どうして、と思いこそすれど、出ていけよ、と言う気にまではなれなかった。不思議とこの時間を心地よく感じている自分がいることに気が付いていたからだった。
「……何、描いてるんだ」
「うーん。僕の好きなもの、かなあ」
「好きなもの? お前が好きなもの……枕、布団、ベッド……」
「ま、枕……うん、それも好きだけど、そうじゃないよ。今は、この部屋にはないものだよ」
「そうか。よくわかんねえな。けど、見なくても描けるくらいには思い入れがあるんだな」
うん、と怠惰が頷く。
黙って聞いていると、鉛筆の音にも色々あることに気づく。これは今長い線を引いているのだろうなとか、寝かせて色を塗っているのだろうなとか。退屈してはいたが、何かを話す気にもなれずにいた傲慢は、そういう違いを見つけることを楽しむことにした。スケッチブックの中身そのものは、まだ視界に入れようとは思えない。彼の方を見るのが、怖かった。
暫く何も話さないでいると、怠惰の方から話しかけてきた。
「……なんでわざわざこんなところに、とか、きかないの」
「訊いてほしいのか?」
「どっちでも。ごーまんはききたい?」
「……訊くのが、怖いよ」
怠惰が手を止める。隣を見れば、困ったように笑う傲慢の横顔が目に入った。
「知るのが、怖くなった。オレが知る人の、知らない部分を認めるのが怖くなったんだ。今まで、オレ、お前らのこと全部わかった気になってた。でも実際はそんなことなくて、それどころか、オレがオレ自身のことを、何もわかってなかったんだ。それを自覚した途端に、人の上に立つことがどれほど恐ろしいかに気が付いて、正直、その……逃げ出したくて、仕方がないんだよ」
「うん」
「らしくない、って思うよな」
「……そうかな?」
意外な返答に、傲慢は初めて顔を上げた。怠惰が柔らかく微笑んでいる。
「ごーまんは……僕らのことを何も知らないし、知ろうともしなかった。でもね、最初から、ずっと寄り添ってくれてたよ」
怠惰がスケッチブックを一枚一枚、捲っている。懐かしそうに眺めるページには、七顚屋の面々の姿があった。傲慢の脳裏に、七顚屋で過ごした日々の懐かしい記憶が甦っていく。彼の絵の中の仲間たちは、自分は、とても穏やかな顔をしていた。
「みんなね……君に支配されてただなんて思っちゃいなかったよ。君が好き勝手やってたことに、腹を立てていたわけでもない。みんな、君がその身勝手な善意で隣にいてくれたことに、ずっと安心してたんだ」
怠惰はこう続ける。
「だからね。この前、あっさり七顚屋やめるだなんて言ったでしょう。七顚屋が……君にとってその程度の繋がりだったこと、寂しかったんだと思うよ」
「そんなこと! ……そんなことない。でも、多分あいつらにとってはそうじゃない……オレが、七顚屋が、きっと枷になってるって、あいつらにはあいつらの人生があるって……」
「枷じゃないよ。行き場をなくした、何もない僕たちに、君がくれたのは……ただいまが言える、帰る場所だから」
怠惰はスケッチブックの一番新しいページを開き、そのページをピリピリと千切り始める。
「僕は知ってるよ。君は『ごーまん』になる前から、ずっとずっと『傲慢』だったこと。目の前の誰かを救わずにはいられなくて、本気で、自分が誰かの苦しみを、なんとかできるって思い込んでいること。自分が持っている力を、何よりも信じていること」
そして、千切ったその一枚を傲慢の膝の上にのせた。傲慢はそれを見るなり、「そうか」と呟く。怠惰の好きなものが――傲慢の、頼もしい背中と、並ぶ仲間達がそこにあった。
「オレ、ずっとこの『傲慢』って力を、頂点に立つことのできる力だと思ってた。オレが何よりも強いから、それを振るうためにこの力を与えられたんだと思ってた」
「それは多分、完全な間違いじゃない。でも、ごーまんの中の『傲慢』の本質って、きっとそんなものじゃないでしょう?」
怠惰が立ち上がる。締め切ったカーテンを開いて、窓を開け放した。爽やかな風が、迷いをどこかへ運び去るかのように部屋を駆けていった。
「なあ怠惰」
傲慢の呼びかけに、怠惰が応じる。
「何?」
「あと一つ二つ、やらなきゃいけないことがあるんだ。ちょっとだけ、店を任せてもいいか」
「……帰るんだね」
傲慢が頷く。それを見て怠惰もまた、にこりと笑った。
「絶対、帰ってきてね」
「ああ」
傲慢は怠惰に渡された絵を手にしたまま立ち上がり、荷造りを始める。といっても大した荷物ではない。リュックには少しの金銭。手には刀。着の身着のままで田舎者の少年が、無謀に街に挑んだあの日と同じ姿だ。
ドアノブに手をかけた傲慢が、去り際、振り返ってこう言った。
「色欲に切ってもらったんだろ。髪、似合ってるぞ」
怠惰の短く切った髪が、風に揺れる。
もう何年も見てきた、友人のその後ろ姿がいくらかましになったことを確認すると、彼も続いて事務室へと戻っていった。そうだ。それでこそ、僕の友達。夢と未来を捨てた子供を無理やり外の世界へ引っ張り出した、世界一の『傲慢』。
少年は、自身の故郷に向けて、彼の城を発った。