#4 WHAT'S YOUR NAME
原罪の右腕が、憂鬱の胸を貫いた。
恐怖に怯えていた彼女の顔は、次の瞬間苦痛を叫ぶ。その様子を怠惰はただ呆然と見ていることしかできずにいた。
気味が悪いほどに白いその腕は、ゆっくりと少女の肉体から引き抜かれていく。手首、甲、指と徐々に見えてきたその手が掴む中、くすんだ色の球体が奇妙な光を発している。血のように腕に粘り絡みつく黒胆汁は、まるでそれを離すまいと伸ばす手のように見えた。しかし、原罪はそれをあっさりと振り払う。そうして、無事目当てのものを懐に収めると立ち上がり、次の瞬間にはもう目の前の彼女への関心は無かった。憂鬱が黒い海の中に倒れ、飛沫が跳ねる。
「”憂鬱”――!」
怠惰が破壊した扉の方から聞き慣れた声が飛ぶ。振り返ればそこに、この家の主である虚飾がいた。傍に倒れていた怠惰を一瞥することもなく、力なく倒れ伏した彼女をその目で捉えると、眼前の原罪を仮面越しに睨みつける。一つだけしか備えられていない拳がわなわなと震えていた。
「いやはや、君がずっと彼女のことを匿っていたとはね……偶然目の前で覚醒した傲慢君と違って『憂鬱』をどこで、誰が発現させたのかもわからなかったのだが、灯台下暗しとはこのことだったようだ」
原罪は息をゆっくりと吐き出し虚飾に対面する。ずっと口元に微笑を湛えていながら、冷ややかな視線が虚飾を刺している。虚飾の背筋に悪寒が走った。
「私は君に残りの大罪を見つけて差し出すことを命じたはずだ。それなのにどうだ。嘘の報告をしたかと思えば、彼女を自分の下で保護し、その上傲慢に至っては自分の手で殺そうとしていたとは……これは、恩人である私への反抗と見て良いかな?」
真っすぐ虚飾を捉えた原罪が、気味の悪いほど優しい笑顔のまま歩みを進めていく。怯んでいるのか身動きもとれない虚飾の前で立ち止まり、手を上げる彼の姿に、先刻の憂鬱が受けた仕打ちを重ね怠惰は目を閉じた。
「俺は、まだ、死んで……」
しかし原罪はその手を特にどうするでもなく、過呼吸気味の彼の肩の上にそっと重ねる。
「まあいいさ。私は私の愛する獣人を、傷つけたりはしない。君のことをいじめるつもりもない。今更寿命を縮めたりなんかしないから、さっきのことはもう忘れてしまいなさい。直にあの子も、仕事を終えるだろうから」
原罪は最後にこう言葉を残し、残された少年少女には目もくれず、立ち尽くす虚飾の隣を通り過ぎていった。
「では。君たちの平穏と幸福を、祈っているよ」
憂鬱が微かに声を上げ、上半身をなんとか起こそうとしていた。我に返った虚飾はすぐさま駆け寄り、彼女に手を貸す。追って怠惰も立ち上がり傍へ寄って、ゆっくりと瞬きをする彼女の顔を見た。
「すまない……君を、とうとう帰してやることができなかった……その腕を治してやるって約束もしたのに。家族と引き離される苦しみは、俺が一番、わかっていたはずなのに……」
虚飾は憂鬱を抱きかかえ肩を震わせた。怠惰にはその表情は見えなかったが、仮面越しでもその苦痛は伝わった。
「いいんです。もう、いいんですよ。あなたがかけてくれた愛情だけで、十分です。これで、家族も私のことを忘れてくれたなら、それでいいかもですし。だから、虚飾さん。もっと自分を大事にして」
虚飾の腕の中、憂鬱は寂しそうな笑みを浮かべる。それを見て何とも言えなくなった怠惰も思わず「ごめんなさい、何もできなくて」と口走るが、虚飾は「君は謝るな」と言った。
「……一体、何が起きたの?」
「憂鬱は、俺たちのように原罪に罪を与えてもらったわけじゃない。適性が高すぎて自分で罪を獲得してしまったんだ、無意識のうちにな。だから、自分の名前もしっかり覚えていて、且つ、罪代でもある。要は一つの体に二つの名前を持っている状態だった」
怠惰たち『罪代』は、原罪が死に瀕した獣人に罪名を与えることで、特異な性質と第二の生を与えられた存在だった。この時、元々彼らが持っていた名前は、原罪に引き渡すこととなる。彼らは、罪そのものを表す概念として存在を上書きされるからだ。すると名前を失った結果、彼らはそれまでの彼らに関する記憶を、この世の誰からも思い出されなくなる。初めから、いなかった者同然に、扱われることとなる。
だが、憂鬱は違った。彼女は今の自分自身を『憂鬱』とすることで、その身に二つの名前を宿した。勿論、意図的に行ったわけではなく、彼女の性格と境遇が引き起こした不慮の事故であるが。
「これが計画に不都合だった原罪は、憂鬱の本来の名を奪ったことで俺たちと同じ純粋な『罪代』に還した。……憂鬱は、ずっと帰りたかったのに。あいつは、憂鬱の名前だけじゃない、いつか帰る場所も奪っていったんだ」
「そんな」
虚飾は、再び目を閉じた憂鬱を抱き上げて立ち上がる。仮面越しに怠惰を見つめながら問うた。
「あいつ……傲慢も、憂鬱と同じ筈だ。名前を覚えている、違うか?」
怠惰は虚を突かれたような顔をした。それを否定の意味だと理解した虚飾は「何だと」と呟く。少し思案した後、彼は顎で指してついてくるように促した。
「そうだな、君には話してやってもいい。嫉妬と原罪の企てていることを、そして俺がこれから為そうとしていることを。そしてもう、頼むから邪魔をしないでくれ」
プライベートの侵害を滅多に許さない憤怒の部屋に、これほどまでに人が集まることは初めてのことだ。色欲の伝手で七顚屋が長らく懇意にしている闇医者が治療が行っている様子を、傲慢、色欲、強欲、そして嫉妬はベッドを囲いまじまじと眺めていた。整然と片付けられたこの空間で、千切られた左腕だけが異質だった。その左腕を食いちぎった本人はというと、未だ気を失ったままで自室に寝かされている。
緊迫した空気の中で、医者とそれを手伝う色欲の静かな声だけが行き交っていた。そうして時間は過ぎ、医者がマスクを外す。
「何があったのかは聞かないが、暫く彼に無理はさせないことだ。最善は尽くしたとはいえ、この腕も二度と動かないかもしれない」
「そうか……ありがとう。いつも悪いな」
「先生、ありがとうございました」
どこか重々しい礼を医者は手で制すと、手際よく道具を片づけ立ち上がった。
「代金はいつものところへ。では」
「傲慢様、表までお送りして参りますね」
「頼んだ」
医者と色欲が部屋を出る。残された三人は頭を下げてそれを見送った。扉が閉まる音がして、漸く一同は深いため息をついたのであった。靴を睨むように深々と礼をしていた傲慢が顔を上げる。
「まあ、なんだ。憤怒が生きててよかったよ」
「問題は山積みだけどなあ」
暴食により千切られた憤怒の左腕は、今回の手術で見た目上は接合されたとはいえ、今後使い物になるかどうかはわからない。腕のみならず立て続けに全身を負傷した憤怒には、医者の言う通りこれ以上無理はさせられないだろう。そして、親同然に慕っていた彼に致命傷を負わせてしまった暴食自身の精神状態も心配だ。加えて、虚飾が起こした事件と彼が残した言葉を思えば、穏やかな日常は暫く戻ってきそうにもなかった。怠惰もどこかに行ったまま帰ってこず連絡がつかない。
「お前のこともな」
傲慢の声に、嫉妬が肩を強張らせた。どれだけじっと見つめても、目を逸らしたままで一言も話さない。傲慢は諦めて扉に手をかけた。
「とりあえず、事務室に降りるぞ」
いつもの部屋に戻ると、既に色欲が自分のデスクで待機していた。それに合わせて強欲も自身の席につく。傲慢は敢えてソファに飛び込むように腰掛け、脚を組んだ。嫉妬はテーブルの傍で立ち尽くしたまま、視線を彷徨わせている。
傲慢は先刻からの嫉妬の態度がいたく気に食わなかった。いつも調子のいいことを言い、余計な口を出し、落ち着きなく動き回るかと思えば傲慢の邪魔をする。いい意味で場を狂わせていた彼女が、まるで空気を読んでいますよと言うかの如くしおらしくしていることに腹を立てていた。今お前に求めているのは、それじゃない。つくづく自分が欲しい反応と真逆を行く嫉妬が、気に入らなかった。
誰も話し始めないことに苛立ちながら周りを見渡して、ようやく傲慢は皆が自分の言葉を待っているのだと言うことに気が付いた。口火を切る前に、溜め息を一つ。
「じゃあ嫉妬、まずお前からだ。なんでいきなりいなくなったりした。一連の事件がお前のせいだとは言わねえよ、不幸がちょっとばかり重なっただけだ。でも連絡もつかない、帰りたがらない、迷惑もかけられた。今回ばかりは気まぐれで済ますわけにもいかねえだろ」
「……」
「オレの”目”が通用しないからって、いつまでもだんまり決め込んでられると思うなよ。何も吐き出させる方法はそれだけじゃないことを忘れるな」
堪忍袋の緒が切れた傲慢は、立ち上がり懐の刀を引き抜こうと手をかける。嫉妬は依然びくとも動じず、代わりに強欲が慌てて傲慢を制する始末だ。
「待て待てあんちゃん急ぐんじゃねえ! 大したことじゃないかもしれないだろ、んな物騒なもん持ち出すには早いって」
「早い? 本当にそうか? 身内だからって甘くする必要がどこにあるってんだよ。憤怒ならこうするだろ。色欲も。そしてお前だってな。思ってもみないことを言うんじゃねえ」
嘘だ。傲慢は敵にこそ冷たいが身内にはとことん気を許す。自分への信頼がそこにあることを、心から信じているからだ。何を焦っている、思ってもないことをしようとしているのはあんたの方だろう。そう反論したかったが、強欲は口をつぐんだ。傲慢の言う通りまた、自分たちがそれほど情に篤くないという自覚もあったからだ。互いに図星というわけだ。
渋々刀をしまった傲慢は表情を一変させ、普段見せないような乞うような顔で嫉妬に向き直った。
「お前のことを疑ってるわけじゃないんだ。いつもみたいにおどけてくれればそれでいい、それでオレはお前を信じるよ。だから、頼むから、適当なこと言ってくれよ。そうでないと、お前……まるで自分が関係あるって、言ってるようなもんじゃねえか」
「……」
「嫉妬、いい加減になさい。質問に何の返答もしないのはマナーがなってないわよ」
「まあまあ、人には人それぞれ言いたくないこともあるってもんで今日のところはお開きに……」
苦悶に満ちた顔の傲慢、平静を保てない色欲、あくまで中立をとるような強欲。議論は当事者の嫉妬が口を開かない以上平行線を辿る他なかった。
事務所の扉が、開かれるまでは。
「あの、えと……これ、今どういう状況、なの……?」
「怠惰! どこ行ってたんだよ~あんたまで何かあったんじゃないかと俺っち達心配してたんだぜ」
困惑した様子で室内を見渡す怠惰を見るや否や、重い空気に耐えかねていた強欲が、助かったと言わんばかりに立ち上がって声を上げる。
「あ、ただいま。あとごめんね。連絡もしようと思ったんだけど色々あって、遅くなっちゃって……その上、ごーよくくんにもあれだけ釘を刺されたのに、憤怒さんを止められなかった」
「あー……まあ気にすんな。憤怒も望んでしたことだし、俺っちもなんとなくこうなるんじゃないかって気はしてたよ。皆命あっただけで十分っしょ」
強欲と会話しながら怠惰は傲慢向かいのソファにゆっくりと腰を下ろした。部屋の照明が柄にもなく汚れた彼の衣服を照らす。
「おかえりなさい。で、結局貴方、今までどこで何をしていたの」
珍しく棘のある色欲の物言いに少し肩を竦めながら、怠惰は答える。
「シロツメだよ。そこでげんざいさんにも会ったし、きょしょくさんと話をしていたんだ」
「なんだって!?」
一同が声を上げて驚く。嫉妬も今度ばかりは「えっ」と零し、顔を上げた。
「虚飾と話ができたのか。それで、あいつは何て言ってた」
この場で――嫉妬がいる今この時に言うべきか、言わざるべきか。怠惰は迷っていた。しかし皆いずれ真実を知る時が訪れるのなら、早く言うに越したことはない気もしていた。
虚飾が帰宅する自分を見送る際にかけてくれた言葉を思い出す。手遅れになる前に、君の口から伝えてやれ。非力な自分にできることは、得た情報をありのままに伝えることだけだ。
「えっとね、信じてもらえないかもしれないんだけど、その……げんざいさんは、自分の恨みで、この世界を変えてしまおうとしてる。大罪の力で、獣人に力を与えて、その力で人間を、一人残らず消してしまおうとしてるって」
「何だって」
「その被験体と養分に使われたのが僕たちなんだよ。僕らがもらったのと同じ、いや、何倍も強い力を、あの人は獣人みんなに渡そうとしてる。でも、足りないものがあるんだ。それが、ごーまんなんだよ」
「オレが? 何で」
「きょしょくさんが言ってた。僕たちは大罪を分けて与えられたけど、ごーまんは、『傲慢』っていう大罪の力を、自分自身で覚醒したんだって。ゆうちゃんも同じ。そしたら、げんざいさんの手元からは『傲慢』の罪がなくなる。これを取り返さないと、他の人たちに罪を配るための魔法が完成しないんだよ。だから、僕たち……いや、ごーまんはげんざいさんをずっと探してたけど、同じように、ごーまんはげんざいさんに狙われてたんだよ」
皆、息を呑んで、怠惰の話を聞いていた。突拍子もない話だと、誰もが感じていた。しかし、誰一人として疑うこともしなかった。ここにいる全員が、奇跡のような第二の生と、信じがたい力を得ていたからだ。あの男は、そういうことができる。確証があった。
ひと際大きく目を見開いた傲慢が言う。「まだ、何か言うことがあるんだろ」
早口で――いつもと比較して、の話だが――話し続けていた怠惰は一度深呼吸して息を整えた。いつの間にかソファから腰を上げていた傲慢が、じっと、次の言葉を待っている。怠惰は、ここまでくるともう引き返せないな、と思った。
「あのね、落ち着いて聞いてほしいんだけど。げんざいさんは……君を捕まえるために、送り込んだんだよ。……しっとさんを」
次の瞬間、嫉妬がその場から逃げようと駆け出す。しかしその腕を色欲が掴み、引き寄せて羽交い締めにした。
「待ちなさい、ここでのこのこと貴方を逃がすわけにはいかないのよ!」
「離して、ねえ、認めるから! アタシが悪い子だって、認めるから!」
嫉妬が暴れる。それを鬼の形相で離さない色欲。男たちは2人の攻防を呆然と眺めていた。
「ずっと怪しいと思ってたのよ! いつも決まった時間にいなくなる、記憶がないと主張しながら、覚えていることといない筈のことで齟齬がある。頭が悪いふりをしているけれど、ここに来る前の犯行だって計画的だった。傲慢様からはついて離れないでいつも後ろをとってた! 何か隠してるんじゃないかって警戒はしていたけれど、まさかそんなことをしていただなんて」
「色欲、いいよ。離してやれ」
「傲慢様、でも」
「いいから」
何よりも絶対である主にそう言われては逆らえない。色欲は渋々腕を解いて、不服そうに自分の席に戻った。
色欲への抵抗に体力を使った嫉妬はその場にへたり込む。傲慢は彼女の目の前に立ち、情けない笑顔を以て見下ろした。
「何も覚えてないって言ってたのは」
「嘘」
「オレに纏わりついてたのも、退屈だったからだろ」
「嘘」
「……いつまでもここにいるって」
「嘘だよ、全部嘘。お父さんのための、嘘」
傲慢は、生まれて初めて受けた裏切りをどうしても受け入れることができなかった。いくら日頃嫌っていた相手だったとしても、自分の手元に置き、全てを理解し、掌握していたと思っていた人が、自分の知らない側面を持っているという事実を許容できなかった。その途端に、毎日見ていたはずの嫉妬の顔が、まるで知らない誰かのように見えてきて、所詮自分たちは他人であったことを思い知らされる。
「っはあ~何するかわからん以上、こうなりゃ追い出すしかないでしょ」
「このまま戻すのは危険じゃないかしら。手の届くところに置いて閉じ込めておくべきよ」
怠惰はおろおろしながら二人の会話を見ていた。騒ぎの種を蒔いてしまったことに多少の罪悪感を覚えながら、この先、一体どうなってしまうのだろうと行く末を案じるばかりだった。
傲慢はどうすればいいのかわからなくなった。絶対的に正しかった筈の自分に既に自信が持てなくなっていた。強欲と色欲の会話を追いながら、視界の隅で嫉妬がすっくと立ち上がったことに気づく。
「いーよ、アタシもういらない子でしょ? お互いメーワクなら、さっさと自分から出てくって。今までありがとね」
そういって四人を残し、嫉妬は部屋を出ていった。壁越しに、玄関の扉が閉まる音がした。
「これで、良かったのかな……?」
「まあ向こうさんから撤退してくれたんなら有難い限りじゃないの? 原罪の目論見はよくわからなかったけども」
静寂に包まれた部屋で、再び傲慢が口を開いた。
「やっぱり、納得いかねえよ。オレはもう一度、あいつと話がしたい」
そして傲慢も部屋を飛び出した。誰も彼の後を、追わなかった。追うことが、できなかった。
嫉妬の失踪、暴食の誘拐、虚飾との攻防、憤怒の手術、七顚屋での論争。立て続けに色々な出来事が起き、気づけば夜も明けていた。それに気づけなかったのは、気味が悪いほどの曇天で日の光が遮られていたからだろう。あまり明るくない大通りは、今日が日曜日であることも相まって人通りもない。傲慢はすぐに、嫉妬の後ろ姿を見つけることができた。駆け寄りながら、大きな声で呼び止める。
「見つけた。嫉妬、帰るぞ」
嫉妬は背を向けたまま首を振った。
「いいから、事実だろうが誤解だろうが、これからもう一度、どうするべきか皆で考えてさ」
「やめてよ!!」
傲慢の伸ばしかけた手を嫉妬は勢いよく払って、ようやく振り返った。目に涙を浮かべているその顔を見て傲慢はぎょっとした。二人の視線がぶつかる。
「傲慢君のそういうとこ、大嫌いだよ」
「そういうとこって、何だよ」
「自分は何でも持ってるからっていつも余裕があって偉そうで、なんでも自分が思った通りにできるって思ってるところだよ。傲慢君は何もわかってない。アタシのことも皆のことも、何もわかってないのに救った気になって、それを支えにしてるのは他でもない傲慢君自身なのに」
「お前の言ってることがわかんねえよ」
「傲慢君だけじゃない。他の皆もそうだ。大切なものがある。幸せな時間を過ごしてる。守りたいものがあって、守ってくれる人がいる。奪われることのない愛がそこにある……アタシだけ。満たされてないのはアタシだけなんだって」
「そんなことないだろ、いったい何が不安なんだ、お前に足りないものはなんだ」
「全部だよ! この世の全部、アタシに足りない! アタシにはこの世界の全てが羨ましくてたまらないんだ!」
嫉妬の手が、傲慢の首を掴んだ。傲慢はどういうわけかそれに反応できなかった。彼女の動きに気づかなかったわけではない。気づいた時には、既に身動きがとれなかったのだ。
「初めて会った日、覚えてる? あの時、アタシが近づいたのが後ろからで良かったね。アタシと十秒でも目が合ったヒトはさ、石みたいに動けなくなるんだよ。知ってた?」
出会う前、嫉妬が起こしていた事件の内容を傲慢は反芻していた。『こんなに大きな人までひとりひとり首をしめてころしているのかしら』、『よっぽど力の強いひとなのね』とは暴食の言葉だった。ただ力が強いだけではなかったのだ。全てのからくりがやっと解けていく中、ゆっくりと、首が絞まっていくのを感じていた。口から出る音は言葉でもなければ、もう呼吸の体すらなしていない。
「でももういいんだ。皆の大事なもの、アタシから奪っていったもの、奪い返してやる。取り返せないなら、同じ目にあえばいいんだ……だから、傲慢くんが大事に、大事にしてた『ソレ』も、アタシが貰うね」
一段と力が強くなり、傲慢は自身の終わりを悟った。
意識が遠のく中、か細い声で「ごめんね」と、そう聞こえた気がした。
色欲と強欲が豪雨に打たれる伏した傲慢の身体を見つけたのは、数時間後のことだった。首にははっきりと、あの日資料で見た異様な絞首痕が残っていた。空を、雲が、覆っている。