#3 HOW TO HELP

 声が、聞こえる。わたしの名前を呼ぶ声が。
 暗い海の底で浅い夢を見ているような感覚。水面から光が差し込むみたいに。靄のかかった意識を醒ますように。声が、聞こえる。
 鈍色の視界に色彩が戻ってくる。徐々に聴覚もはっきりとし、暴食はその場で大きな目を二、三度瞬きさせた。
 血の海が目の前に広がっている。そこに溺れるかの如く、倒れ伏した大切な人。
 理解することを拒んでいた脳がようやくその景色を認識したのか、「あ」と言葉にもならない音が零れた。



- HOW TO HELP -



 目を覚ました暴食と地に伏す憤怒の元に、強欲、色欲、そして虚飾と牽制し合っていた傲慢が駆け寄る。嫉妬はその場から動くことができなかった。暴食は目の前の惨状を見て、わなわなと震えていた。
「あにさま、わたし、わたし……」
「嬢ちゃんしっかりしろ! 憤怒はこんなことで死なない……多分!」
「ひとこと余計よ!」
 色欲が憤怒の止血にあたる。噛み跡や武器の刺し傷は勿論だが、特に噛みちぎられた左腕は目も当てられない。布はないかと彼のマフラーに手を伸ばすが、そういえばこれは暴食が贈ったものだったかとふと思い出し、手を止める。色欲は強欲からナイフを借りると、自身のスカートを切り裂いてきつく縛った。強欲は、暴食の目の前に塞がり顔に手を添えて、血塗れの男の様子を決して見せなかった。その間に傲慢が、千切られた左腕を暴食のもう一つの頭から取り外す。咀嚼はされていなかった。辛うじて、彼の声が届いたか。
「お、嬢、起き、た、か」
 失血で朦朧とする意識に歯を食いしばりながら、まだ意識を保っている憤怒が問いかける。
「心配ない、『お嬢』は確かにここにいる」
「そうか……っ」
 この状態でまだ体を起こそうと身を捩った憤怒の肩を、そっと傲慢が押さえつけた。
「おい馬鹿テメェはまだ寝てろ」
「狐……そこをどいてくれ。顔が、見たい」
 二人を交互に見やり、躊躇いながらも強欲は暴食の前から立ち上がり、身を引いた。彼女と目が合った憤怒は安堵したように微笑み、「少し休む」と言いながら瞼を下ろした。一方の暴食は膝から崩れ落ちる。傍にいた強欲が慌ててその体を支えた。気を失ったようだ。
 彼らの面々のやり取りの裏で、憂鬱はひとり気を動転させていた。
「いや……こんな……私、こんなことしたかったんじゃ……」
 その場を後ずさる憂鬱は、壁に背がぶつかったと同時に手に違和感を覚え持ち上げた。虚飾も彼女の身に起きた変化に気が付き、息を呑む。
 憂鬱の手から、黒い液体が溢れていた。既にその原型を失った大きな布の塊が、床にぼとりと落下する。制御できない能力を物理的に阻害するための手袋は、しかし膨大なオーラを抑えることも叶わず、腐りきって役目を終えた。
 七顚屋の三人も、流石にこの異様な音を耳にして一斉に憂鬱の方を見た。視界に飛び込む気味の悪い光景。そして強い瘴気が辺りに立ち込める。耐えかねた憂鬱は悲鳴を上げ、外へと逃げ出した。
「待てユウリ! 一人で行っては――」
 虚飾がその後を追おうとしたが、目の前に現われた刀がそれを阻害する。傲慢だ。
「お前はまだ行かせられない。訊かなきゃいけないことがある」
「ふざけるな、そこを通せ!」
 再び互いに刀を振るう。両者共に引く気配はなく、交わる刃を押し返そうと躍起になっている。ただ数分前と異なる点は、今の虚飾は傲慢への殺意は忘れ、一刻も早く此処を出て彼女を追わなければという一心だということだ。
 対して彼を止めることに必死な傲慢は、眼前の敵を見据えたまま仲間に指示を出した。
「強欲、色欲! それと嫉妬もだ。憤怒と暴食を家まで運べ!」
「承知いたしました」
「了解!」
「え、いや、アタシは」
「いいから!」
 彼と目が合ったわけではない。第一、目が合ったところで嫉妬に傲慢の支配は通じない。ただ、怒気の籠った言葉に気圧された嫉妬は、その命令に背いて黙って立ち去れるほどの身勝手さを持ち合わせてはいなかった。
 三人が意識のない二人を抱えて外に出る。尚も対峙することをやめない傲慢に、虚飾は焦燥感から苛立ちを隠せない。
「俺を裏切ったあんたなんかに、話すことなぞ一つもない!」
「裏切り?」
 一瞬の疑問が傲慢に隙を作る。虚飾は不意をついて傲慢の足を払った。身体が宙に浮くも即座に手をつき、転倒は回避されたが、それでも虚飾が立ち位置を変えるのには十分な時間だった。
「惚けた顔をするな。自分勝手で軽率な、あんたの『傲慢』さに置いていかれた者の存在をゆめ忘れるな。そして、そんなあんたの命一つで多くの人間を救うことができることも、だ」
 いつの間にか出口側を背にしていた虚飾は、そう言い捨てると踵を返し走り去った。
 傲慢は、何も言い返すことができない。呆然と立ち尽くす他なかった。



 憤怒と共に廃ビルまで来たはいいものの、「此処で待っていろ」と言いつけられた怠惰は、彼の凄みに屈した結果一人入り口で待っていた。傍には満身創痍の彼が運転してきたバイクが乗り捨てられている。横倒しのまま放置しておくのも落ち着かないので、せめて起こしておこうと試みるも、小柄な怠惰の力ではどうにも上手く持ち上げられない。抱え方を変えながら何度か挑戦するも、数秒後には諦めて路上に座り込んでしまった。丁寧に手入れはされているとはいえ錆の入りつつあるその車体を見つめながら、中にいるであろう仲間のことを思う。
 どうか、どうか何も起きませんように。
 三角座りをした自分の腕の中に顔をうずめたまさにその時、背後の廃ビルから少女の悲鳴が響いた。続いて、聞きなれた声が誰かの名前を呼んでいるのが耳に入る。誰なのかまでははっきりとわからなかった。しかし、何かあったのだということだけは鈍い自分にもわかった。
 怠惰は慌てて立ち上がり、憤怒に言われたことも忘れ屋内へ駆け込もうとした。しかし、同時に中から飛び出してきた人物と肩をぶつけ、尻もちをついてしまう。痛む体をさするよりも先に、ぶつかった相手を特定しようと顔を上げた先に見えたのは、同じように転んで立ち上がろうとしているユウリの姿だった。
「ゆうちゃん……?」
 その声に肩で反応した憂鬱がこちらに顔を向けた。驚いたように目を見開いている。怠惰の存在に気づいた彼女は、狼狽えるように視線を動かした。息が荒い。何かを言おうと口をはくはくと動かしているが、聞き取れず近づこうと体を起こしたところで、彼女は顔を背け叫んだ。
「来ないで!」
 聞いたことのない声色に怯んだ怠惰は、そこで漸く彼女の異変に気が付いた。いつものように手袋をしていない。両腕の袖から覗いたのは、肥大化した獣の手。その手の中から、黒く粘り気のある液体がとめどなく溢れ出していた。意図しない嫌悪感に口を押さえる自分がいる。悪臭がするだとか、見た目が奇妙であるとか、そんな表面的な問題ではない。本能が、自分の意識をさらおうとするその『気』の強さを告げていた。
 呆然としている間に憂鬱は走り去ってしまう。「待って」と呼ぶ声に今度はもう振り返ることもしなかった。追いかけようとする足を止めるかのように、倒れたままのバイクが視界に入る。上にはまだ仲間がいる。
 だが。
「あの人なら、絶対、目の前の人を独りにはしない」
 傲慢なら、こうする。そんな思考が、怠惰の背中を押した。
 ビル内のことは自分が行かなくても彼が何とかしてくれる。なら、今は自分ができることを選択するべきだ。迷いはなかった。怠惰は、大切なともだちの後を追うことに決めた。



 異変に気が付いたのは、十五歳の春だった。
 朝起きて歯を磨き、鏡に映った手の甲を見て妙に毛が増えていることに気づいた。その時はまだ大して気にも留めず、かといってこのままにしておくのは格好がつかないので、カミソリで丁寧に剃り取ってから学校へ向かった。
 当時のユウリはれっきとした『人間』で、花屋の家を手伝いながら学校に通い、友人にも恵まれ、それなりに良い暮らしをしていた。法整備のされた町を出ずに少女時代を過ごした彼女にとって、獣人はテレビの中だけの存在だ。そんな彼らを可哀想だなといくら思ったところで他人事でしかないのが実情だ。日常に溢れる多くの幸福を、その有難みも知らず当たり前に享受していたのがあの頃だと思う。
 次の日、目を覚ますと体毛はより一層濃くなっていた。脚や顔は問題ない。手だけが茶色い毛に覆われ始め、これは悪い夢なのではないかと大真面目に頬をつねったところで、やっと自分の身に変化が現われていることを自覚したのだ。とはいえユウリは家族に相談する勇気もなく、昨日と同様毛を剃って学校に行く。どうも人の目がいつもよりも気になって仕方がなかった。友達と談笑している間も、不安は拭い去ることができなかった。
 自分は、ブラウン管の中の彼らと同じ、『獣』になってしまったのではないか?
 根拠のない憶測が脳裏を掠めてからというもの、人とまともに接することができなくなっていった。声が小さくなった。友達からの遊びの誘いを不自然に断った。嘘をついて一人の時間を増やした。時には気分が悪いと保健室に行った。それでも、誰かに見られているような気がした。手袋ができる花屋の手伝いで、花に囲まれている時間が唯一穏やかでいられた。
 次の日、また次の日と症状はみるみるうちに悪化していく。一週間たった頃には、今度は爪が急激に厚く、長く、鋭く伸び始め、それでも変わらぬ日常を崩したくない思いで毎朝日の出る前に目を覚ましては爪を研ぎ、毛を剃り、美しく身なりを整えた。少しでもそれがばれないよう、暑い日も長袖で指先まで手を包み、ある時は手袋をし、ある時は包帯を巻いて自分を取り繕い続けた。そうまでして尚、人に打ち明けることは一度もできなかった。
 ひと月が過ぎたころには部屋を出られなくなった。取り繕う気力はとうに尽きた。もはやその手はいくら手を施そうと人のものではなかったからだ。入れ替わり立ち替わり、親が、祖父母が、あるいは友人らが、部屋の前にやってくる。憂鬱は誰一人として中に入れはしなかった。食事を受け取ることすら拒んだ。
 彼女の頭を一番悩ませたのは、この恐ろしい現象の、或いは病の原因ではないし、己の醜さについてでもなければ、周囲がこれを見た時にどんな反応をするかということでもなかった。憂鬱は自分がそれなりに愛情をかけて育ててもらったことや、彼らが自分を切り捨てるような冷たい人間でないことを知っている。最大の問題は、このことが他の誰かに知られたとき、家族が、友人が、自分に関わった人々が、間違いなく自分のせいで町から追い出される羽目になるということだった。ルールほど冷たいものはこの世界に存在しない。現実は非情だ。
 誰かに助けを乞いたい一方で、乞うた時点で罪になる。何より自分の家族が、何の罪も犯していないのに糾弾され、追放される。それだけは、嫌だった。愛を向けられて仇で返すことになるのなら、私はいなくなりたい。苦しむなら、ひとりがいい。
 明朝、憂鬱は家を、この町を出た。いつか外の世界でこの病を治すことができたなら、もう一度帰ってこよう。それができなければ、ひっそりと死んでしまおう。そう考えながら、逃げ出した。



「ここは」
 黒い水溜まりを辿りながら怠惰が辿り着いた先にあったのは、通いなれたシロツメ堂だった。先刻見たプレートは、閉店を示している。気づいた憂鬱が元に戻したのだろう。しかし、慌てていたのか、若しくはそうすることができなかったのか、カギはかかっていない。そっと取っ手を引くと、重たい音を響かせながら扉はするりと動いた。
「お邪魔しまーす……」
 恐る恐る中を覗く。すっかり夜も更けた、明かりのない店内を壁伝いに進み、照明のスイッチを探す。四角い突起物に触れたのを確認し、それをそっと押し込むと、天井の蛍光灯が数回点滅して店内を照らし出した。
 そこに広がっていたのはいつもの落ち着いた喫茶室ではない。あちらこちらに飾られていた花々は枯れ腐り、一つとして命を宿していない。木製の壁も腐食し、触れれば崩れそうだ。荒れた店内に転がるスクラップは、錆が増して使えそうにもない。カウンターからは鼻につく臭いが漂っている。酸敗した珈琲豆だろうか。
 何よりもこの店には、先ほど憂鬱と対峙した時に感じた心臓を蝕むような重い空気が淀んでいる。息をするだけで気分が落ち込みそうだ。今すぐその場で眠ってしまいたくなる気持ちを抑えなら、怠惰はカウンターの奥の鍵のかかった扉の前に座り込んだ。長くは此処にいられない。
「……誰か、いるんですか」
 ドアを隔てて、か細い少女の声が聞こえた。
「僕、だよ」
 壁に手をそっと添え、はっきりと返事をした。
「どうして? 私、来ないでって言いましたよね。私のことは、ほっといてください」
「それはできないよ。それじゃ、ゆうちゃんが独りになっちゃう」
「独りになるためにこうしているんです!」
 悲痛な声で憂鬱が捲し立てる。
「私なんてきっと居ないほうが良かったんです! 私のせいで家族が辛い目に合う! 私を護るために虚飾さんが本当はしたくないことをしようとしている! 折角お友達になれたと思った人たちのことも傷つけた! 私だって、本当は誰かの力になれる人になりたかった、必要とされたかった、虚飾さんのことだって守ってあげたい……でもこの手じゃ、何にだって触れやしないじゃないですか! ……疫病神が有難がられるのは居なくなった時だけなんです。もう一度幸せを望んだのが間違いだったんです。どうか、怠惰くん自身のためにも、これ以上私に、近づかないでください。迷惑、かけたくないです」
 ヒステリックに叫んだあと、部屋の中から啜り泣く声が聞こえた。重い足を引っ張る瘴気よりも、その声が怠惰の胸を刺した。意を決して立ち上がり、ドアに手をかけて力いっぱい押し込む。
「う……おぉ……!」
 ミシミシと傷んだドアが音を立てる。憂鬱の能力で腐り、脆くなった木製の扉は、非力な怠惰が振り絞る全力でとうとう亀裂を入れ、大きな音を立てて割れた。
「僕の大切なともだちを――大好きな君自身を、これ以上、傷つけないでよっ」
 扉の向こうには顔を上げて驚いた様子の憂鬱らしきものがうずくまっている。黒々とした『何か』に覆いつくされた彼女は、もはや手のみならず全身がおどろおどろしい化け物と化していた。
「独りで、抱え込まないでよ。勝手にいなくなろうと、しないでよ。僕は君と一緒にいて楽しかったよ」
 怠惰の本能が今すぐここから出ろと叫んでいるが、今の彼にはそれを受け入れることはできなかった。怠惰には、怠惰なりのプライドがあった。ここで引き下がるのは、今まで身を挺して自分を助けてきてくれた人々に不誠実だと思った。怠惰は、自分自身を守ることに怠惰になるべきだと決意した。
 一歩ずつ前に進む足取りがどうにも重いと足元を見やれば、まるで沼のように黒胆汁が部屋を浸水させている。水の中を歩くような感覚。波は少年を追い返そうとする。
「そうやって……誰かのために、ずっと自分の気持ちを、抑えてきたんだよね。でも、誰かを守りたいなら……まず、自分のことを助けてあげなくちゃ」
 たった数畳の部屋の、端から端へと渡るのに、島から島へと海を泳いで渡ったかのような疲労感が全身を襲った。けれども、怯むことなく進んだ彼の目の前に、今、小さな少女が座り込んでいる。
 もう恐怖も躊躇もなかった。ああ、ふんぬさんが自らの身を叩き起こして動くことができた理由が、なんとなくわかった気がする。怠惰は膝をつくと、憂鬱の手を両手で包み込むようにして、確かに触れ、握った。
「だめ、私に触ったら」
「大丈夫、だよ」
 目眩がする。朦朧とする意識の中で、一つだけ現状を打開する策が頭の中に浮かんだ。
 そっと目を閉じ、大きなあくびをする要領で大きくその場の空気を取り込む。そして、怠惰は獣にそっと、口づけた。すっと息を吸い込み、自分の力を使う。
 顔を離した頃には憂鬱を覆っていた邪気は全て霧散し、消えていた。代わりに真っ赤な顔をした憂鬱がそこにいた。
 怠惰は、自身の『怠惰』の力を以て、憂鬱の中の『憂鬱』を一時的に眠らせたのだ。
「今からでも遅くないよ。ゆうちゃんにしかできないことが、きっとあると思う。自信持って。虚飾さんの背中を押せるのは、僕たちじゃなくてゆうちゃんだから」
 憂鬱は二つの目から涙をぽろぽろと零しながら頷いた。
「あのね、怠惰くん。知ってましたか。『憂鬱』になって、虚飾さん以外で私の手をとってくれた人、怠惰くんしかいないんですよ」
 依然熊の見た目のままの手で涙を拭おうとする憂鬱に、怠惰はハンカチを差し出した。
「私、怖かったんです、ずっと。虚飾さんを助けたいって思うばっかりで、でも、何にも考えずに同調しかしてこなかった。二人がしてくれたみたいに、手を取れなかった。どうしたら、あなたみたいに、できますか」
「僕も、ずっと怖かった……でも、僕の憧れた優しい人が、心の中で背中を押してくれてたから……ゆうちゃんも、きっと背中を押してくれる人が、いると思う。僕たちに、やるべきことを教えてくれる人が」
 憂鬱の問いにそう答えた怠惰を、彼女は見上げた後、一度目を瞑って大きく深呼吸をした。虚飾の、怠惰の、彼らの温かさが心の中にそっと火を灯す。そして意を決したようにまっすぐ彼の目を見つめて、口を開いた。
「……傲慢さんが、いえ。マキアが、世界が危ないです。虚飾さんは、その身に鍵を背負っている傲慢さんを――自分のお兄さんを、この世界を守るために殺してしまおうと」
 そこまで言った憂鬱が、唐突に息を呑んだ。見開いた視線の先は、怠惰の背後を貫いている。何者かが自分の後ろに立っている。
 どこか懐かしいようで、恐ろしく冷たい気配。どうしてそれに、全く気が付かなかったのだろう。
 恐る恐る顔だけを振り返ってみる。澄んだ優しい瞳と、目が合った。
「見つけた」
 白い装束の男がそこに立っていた。白い髪に、白い外套。優しい笑みとは裏腹に、指一本動かせないほどの突き刺すような覇気を放つ人。間違いない。彼こそが『原罪』だ。
 男は怠惰を一瞥すると、再び憂鬱の目を捉えた。ひ、と少女の声が漏れる。
「ユウリ。君が、私の手を介すことなく『憂鬱』を発現させた子だね?」
「どうして、私の名前を」
 怠惰には状況がさっぱりわからなかった。ユウリが『憂鬱』だというのも初耳だったし、原罪の手を介すことなく、というのも引っかかる。そんなことが可能なのか?
「やっぱり。罪代でありながら、自分の名前を覚えているんだね? 『傲慢』の彼といい、君といい、本当に悪い子だ……大罪を抱えるなら、ちゃんと私に名前を引き渡してくれないと。繭が完成しない」
 ようやく事態を把握した怠惰は能力を行使しようと呼吸をした。しかし。
「怠惰君、久方ぶりで悪いが邪魔はしないでもらおうか」
 まるで欠伸が効く様子もなく、原罪は彼を手にしていた杖を魚を掬うかのように薙いで腹を殴り、壁へと飛ばした。壁に打ち付けた体が酷く痛むが、床に叩きつけられる衝撃は幸い部屋を満たしたままの黒胆汁が受け止めてくれた。黒い水飛沫が上がる。
「怠惰くん!」
 原罪は投げ飛ばした怠惰には目もくれず、少女の前に屈みこむ。そして、左手に厚い本を開き、杖はその場に置いて右手を引いた。
「『禁断の果実の名において、七天を罰当する』――さようなら、ユウリ」

 痛みを堪え、起き上がった怠惰の目に、男に胸を貫かれた少女の姿が映った。