#2 LOST MY SENSE Ⅱ

「ねえ。あにさまは、わたしのこときらい?」
 七顚屋に来て数ヶ月。ようやく二人とも新たな住居での生活に慣れてきた頃に、暴食は彼の慕う"あにさま"――憤怒に一度だけこんな質問をしたことがある。自分でも突拍子のないことを尋ねたと思う。憤怒も、また怪訝そうな面持ちで質問を返す。
「どうしてまたそんなことを。私にお嬢より大切なものなど無いといつも言っているだろうに。それとも何だ、私のことが嫌いになったのか?」
「ううん、違うわ。そうじゃないの。でもね、たまに思うことがあって」
 繋いだままの手を離さずに立ち止まった彼女はこう続けた。
「あにさまがわたしを大事になさるのは、”わたしたち”のことがとってもこわいからじゃないかって。もし、そうなら、わたしなんていないほうがいいよねって」
 こんなことを言っても彼を困らせるだけだということは理解していた。しかし、幼い暴食は長い間抱えてきた不安を口にせずにはいられなかった。大切な人を傷つけたくない、でも愛して欲しい。ひとりになるのはこわい。そんなどうしようもない感情が、大好きな人の顔も直視できないほどの緊張を作っていた。
 憤怒は普段滅多に見せない微笑を湛えて膝をつき、目の前の彼女を抱擁する。彼の温もりが伝播して、暴食は目の縁からその不安とともに涙がポロポロと零れていくのを感じた。
 彼はこう言った。「私がお嬢を大事にするのは、私がお前達のことを何よりも愛しているからだ。そうでなければ――」
 ここから先は、なんと言っていたのかよく覚えていない。

 そんなやりとりを思い返しながら、少女は、目前に広がる地獄のような風景をぼんやりと眺めることしかできなかった。



- LOST MY SENSE Ⅱ -



「お嬢、は」
「ふ、ふんぬさん、もう大丈夫なの……って、そんなわけないよね……」
 傲慢たちが七顚屋を出て、ほどなくして目覚めた満身創痍の憤怒に怠惰は狼狽えた。このような状況に直面したことがあまりないため、かける言葉を上手く見つけられず、どう見ても大丈夫ではない姿の彼に的外れな質問をしてしまったことを怠惰はやや後悔した。反して憤怒は大真面目に「大丈夫だ」などと答えながら上半身を起こそうとする。無理しちゃだめだよ、と言おうとしたものの、彼が素直に言うことを聞くようにも思えなかったので怠惰は起こすのを手伝うことにした。
「それよりも、お嬢はどうした」
 怠惰は何も言えずに目を逸らした。勿論その表情だけで彼女が未だ帰ってきていないことを悟れない憤怒ではない。状況を察した憤怒はクソ、とこぼしながら歯を食いしばり、己の無力に拳を震わせる。
「私が不甲斐ないばかりに、お嬢がシロツメの手に……あの時、もっと正しい判断ができていれば、お嬢だけでも救えた筈……」
「待って、シロツメってどういうこと? ぼーしょくちゃんを攫ったのはシロツメなの?」
「そうだ、それを話さねばなるまい」
 困惑する怠惰に憤怒は先の店主――虚飾との対峙の一部始終を話した。思いもよらない情報に怠惰は混乱しながらも頭の中で情報を整理していく。
「じゃ、じゃあ、シロツメの二人は何かの理由で僕たちを狙っていて、それでぼーしょくちゃんも攫って、本当は七つの大罪は八つで、嫉妬ちゃんは……僕たちの知らない何かを知ってる?」
「概ねそんなところだ。ところで、傲慢たちはどうした。姿が見えないが」
「そうだよ、ごーまんと二人は、シロツメに呼び出されて廃ビルのほうに行っちゃったんだよ」
「何!?」
 驚いて身を乗り出す憤怒だが、能力を解いた身体に激痛が走りわき腹を抑える。怠惰は傍でおろおろとしているしかなかった。苦痛に顔をゆがめながら何とか声を絞り出す。
「罠かもしれない……その様子だと彼奴らもシロツメが犯人であることを知らないな? 虚飾は仮面で顔を隠している、傲慢の支配は通じない。のこのこと尋ねて私のようになれば今度こそ我々は終わりだぞ……それこそ何も知らないままにな……」
 憤怒の言葉に、怠惰は愕然とした。怠惰には傲慢ならなんとかしてくれる、という根拠のない自信があったが、憤怒がそこまで言う相手に恐怖しないわけにもいかなかった。僕が今から伝えに行ってくるよ、と切り出す前に、また怪我人が口を開く。
「そうだ。怠惰、私たちと連絡がとれなくなってから今で何時間が経った」
「え、えと…四時間くらい、かな?」
 曖昧な返答を聞いた憤怒は呆然とした顔で「お嬢が危ない」と零し、今度こそ寝台から降りようとする。
「な、何するのふんぬさん! だめだよ安静にしてなきゃ、ここはごーまんたちに任せて」
「違う! 何も危ないのはお嬢の身だけではない、貴様らは腹を空かせたお嬢の姿を知らないだろう!」
 いつにも増してその怒声に迫力があったのは、それが怒りからくるものではなく、心の底からの焦りによるものだというのは、青ざめた顔からよくわかった。
「私でなければ駄目だ。私が、止めに行かなければ……」
 起きても眠らせちまえ。と強欲が去り際に言った言葉が頭を過ぎり、怠惰は欠伸を移そうとした。そうしたかった。だが、できなかった。ここで彼を止めてしまえば、今度彼が目覚め、万一のことがあったとき、酷く後悔することになる。それを思うと、自分のしようとしていることはあまりにも酷に思えた。勿論、今一番大事なのは憤怒の身体であるが、憤怒が自分の命以上に暴食を大切にしていることも知っている。
「……わかった。でも、ひとりでは行かせられないよ。僕もついていくから、だから、ちょっと待って」



 マキア街の中でも特に治安の悪い旧市街。そこに聳える廃ビルの屋上の一室に、人一人が入れそうなほど大きな檻が一つ。憂鬱は抱えていた少女――暴食をそこにゆっくりと降ろし、鍵を閉めた。いくらジャンクショップを経営しているとはいえ、こんなものがいったいどんなルートで手に入るのだろう、と憂鬱はいつも不思議に思う。
 檻の中の少女はおよそ穏やかとは言えない表情で悪夢にうなされていた。これを自分がしたのだと考えると、嫌気がさす。できることなら今すぐにここから逃げ出してしまいたいところだが、今はそれをすべきではない。憂鬱は暴食から目を逸らし、三角座りをして膝に顔をうずめた。虚飾を待たなければ。
 数分後、コツ、コツと響き渡る足音が憂鬱の耳に届く。そっと顔を上げると、傷だらけの虚飾がこちらに歩いてくるのが見えるではないか。憂鬱は急ぎ立ち上がると壁伝いにおぼつかない足取りで前に進む虚飾を大きな手で――勿論きちんと手袋はつけた状態で――支えてやる。
「虚飾さん! 大丈夫ですか……って、こんな傷で、大丈夫なわけ、ないですよね……ごめんなさい、私……」
「ありがとう。俺は大丈夫だよ」
 支えられたままゆっくりと虚飾はその場に腰を下ろした。片手でズボンをたくし上げると現われた、無数の痣といくつかの銃痕。それは右腕にまで及び、わき腹には切り傷。だが、傷跡のいずれからも出血はない。血を抜いた肉塊を切ったような気味の悪さに、相手は気づいただろうか。
 虚飾がペストマスクを外す。器用に片腕のみで解いた仮面の下からは、端正な、しかしまるで一度死んでしまったかのようにも思えるほどに生気のない顔が現れた。ただ唯一、右目の瞳だけは燃えるような真紅の輝きを灯している。彼が右手をその目に翳し、ふわりと掴むような動作をすれば、今度は赤い光が手の中に納まった。温かな光で傷ついた脚をそっと一撫でしてやると、見る見るうちに傷は消えていく。彼は穏やかな顔でこう言った。
「ほら、見てごらん。俺は生きている」
 はい、そうですね。自分がそう口に出せたのか、憂鬱はよくわからない。でも憂鬱は知っている。彼は自分を今みたいに何重にも偽って、飾って、塗り替えていることを。彼が、本当は既に生きてなどいないことを。
 初めて虚飾と出会ったとき、彼はこう言った。自分は一度死んだのだと。そして俺にはあと千日しか残されていないのだと。当時の憂鬱はその言葉をまるで信じることはできなかったが、共に暮らしているうちにそれは至る所から、嫌という程思い知らされた。彼は流す血を持っていないこと。食事をとる必要がないこと。憂鬱に触れる彼の手が、一切の温もりを帯びていないこと。それに動揺するたびに彼はこう言うのだ。仕方ないさ、俺は死んでいるのだから。
 それがいつの日からだろう。憂鬱が気付いた時には、彼は自分が「生きている」と主張するようになっていた。事あるごとに自分は生きているのだと、必要もないのに訴える。ある日、そんな彼に「前は、そうは言ってなかったじゃないですか」など問うと、今まで見たこともないような恐ろしい形相で「俺は死んでなんかいない!」と詰め寄られたあの恐怖を彼女は今後忘れることはないだろう。それでいて、命があれば躊躇するような危険な物事に躊躇いなく突っ込み、また「時間がない」と度々口にするのだからわからない。きっと彼もわからなくなっているのだ。上辺を、存在を、命を飾り、本来の自分を見失ってしまったのだ。
 そんな彼に、今の自分がしてやれることは一つしかない。彼の傍で彼を支え、残された時を共に駆け抜け、彼が本懐を遂げられるよう助けること。行くあてのない自分を拾い、生きる場所を与えてくれたこの恩を、返すこと。
 虚飾がこちらに手を差し出してくるので、憂鬱は意図を察し、ポケットに入れていた携帯電話を手渡した。受け取るなり彼はワンプッシュで電話を繋ぐ。
『誰だ』
「七顚屋だな? こちらシロツメだ」
 電話越しに聞こえる因縁の相手の声に、虚飾は不敵な笑みを浮かべる。適当に言葉を交わし、難なくこの場所に呼びつけることに成功した。耳元から携帯を離し、独り言ちる。
「兄さんを、今日、やっと。この手で殺せるかもしれない」



 すっかり人気のなくなった夜の大通り。ぽつりぽつりと立つ街灯に照らされる、道行く影が三つ。傲慢、色欲、強欲は、シロツメに呼び出された場所へと駆け足で向かっていた。
「傲慢、次の角は左だ! そこの抜け道を使った方が早い!」
「わかった!」
 そう返事するや否や傲慢は足を踏み込んで曲がり、路地裏へと入っていく。細い道だが通れないほどではない。二人も後ろに続いた。手にした刀が鳴らすカタカタという音が焦燥に駆られる傲慢をより一層苛立たせた。
「こんなところ初めて通るわよ、本当にこっちであっているの?」
「間違いねえさ。俺っちはもう何十年もこの街に住んでるんだ。いざという時の逃走経路は確保済みってワケ」
「何から逃げるって言うのよ……」
 そうこう言っているうちに見覚えのある廃ビルが目の前に現れた。仕事で何度か訪れたことのある場所だ。
「ほーらあっという間だっただろ!」
「あのデタラメな道でよく辿り着けたわね」
「お前ら、時間がねえ。早く行くぞ!」
 建物を感慨深げに見上げる二人を余所に傲慢は先へと進む。今も暴食がどこかで苦しんでいるかもしれない。貴重な情報交換の場とはいえ、悠長にしている暇はないのだ。
 階段を駆け上がり、最上階の一室。勢いよく扉を開けると、そこにはシロツメの店主がいた。彼らがペストマスクを装着した彼の姿を見るのは今日が初めてだった。
「やあお三方、元気だったかな。今日は夜遅くにこんなところまで足を運んでくれてありがとう」
「おいおい店主、オレは三文芝居をやりに来たんじゃねえんだ。お前の知ってることをさっさと話してくれよ」
 呆れた顔で傲慢が急かす。店主はこれは失礼、などと言いながら先程まで広げていた孔雀の翼を畳んだ。
「俺たちがあんたに見せたいものはこれだよ」
「……なッ」
 一同が目を見開く。店主の翼の向こうから現れたのは、店員であるユウリと彼女の隣にある中型の動物用の檻、そして、その中に閉じこめられた暴食の姿。
「テメェ、一体これはどういうことだ!」
 苛立つ傲慢に対しクク、と笑いながら店主は言う。
「もう俺の事を店主などと呼ぶ必要は無い。俺の名は『虚飾』、隣の彼女は『憂鬱』。あんたたちと同じ、大罪を与えられた者だ」
「虚飾に、憂鬱!?」
 色欲が声を上げる。
「罪として被せられるのは、七つの大罪だけではなかったというの?」
「お嬢さん、細かいことはおいおい話そう。俺には先に片付けなければならないことがある……傲慢。俺は今日、あんたを此処で殺したいんだ」
「何だって」
 刹那、目にも見えぬ速さで虚飾は傲慢の目前に迫った。他の誰にもその速度を視認することはできなかったが、傲慢だけはそれを己の勘――正しくは耳元で鳴った風切り音で感じ取り、相手から繰り出される蹴りを刀の鞘で受け止め、一度両者は引き下がった。
「オレを、何だって? 冗談も大概にしろよ。大体、なんでそれにうちの暴食が巻き込まれなきゃなんねえんだ」
「あんた一人の犠牲で救われる命があるんだ! 俺は目的を果たす為なら何だってする、それだけだ」
 彼の言葉は要領を得なかったが、それだけに本気だということのみは理解できた。
「それに、人質がいた方が本気を出さないあんただってマジにもなれるってものだろう?」
「……言わせてみれば! 色欲、強欲、お嬢を頼んだ!」
「了解!」
「了解しました」
 今度は傲慢が先に仕掛けた。右の殴打を避けた虚飾の顔面に、左手にしていた刀の柄が勢いよく迫った。
「フェイントか」
 柄が振り抜かれる寸前、彼は直上に飛び上がり緋色の頭蓋目掛けて膝蹴りをする。仰け反った傲慢の鼻先を脚が掠めた。反射的にその脚を掴む。動揺し、バランスを崩した虚飾の身体は、部屋の床に叩きつけられた。どうにか受け身をとって衝撃を和らげ、拘束のない左足を傲慢の首元を狙って振り切る。鋭く削られたつま先のソールは、どう考えてもファッションのためのものではない。
 傲慢は一か八かで受けるよりも回避を選んだ。右手が離されたことで両足が自由になった虚飾は、再び飛びのいて距離を置いた。
 少し背の高いペストマスクが、つまらないとでも言うようにこちらを見下ろしている。アイピースは照明を反射するばかりで、決して瞳を覗かせてはくれない。
「どうした、早くその刀を抜けばいい」
「身一つで戦う相手に振るう刀はねえよ」
「そうか……憂鬱!」
 檻を背に色欲、強欲と睨み合っていた憂鬱は、彼の呼びかけを聞くと檻の傍に置いてあった真っ白な長物を虚飾に向かって放り投げた。彼はそれを手に取り、金の模様が描かれた鞘から黒く光る刃を抜く。形もデザインも傲慢の物と全く違わない色違いの打刀が、彼の興味を引いた。
「どこで手に入れたかは知らねえが、いいもん持ってんじゃねえか」
「此処で俺はあんたを超える。あんたを切り伏せて何もかもを救ってみせる!」
 同時に飛び出す両者が、同じような型で刀を振るう。互いの刃がぶつかり合う金属音がフロアに響いた。力では両手を使える傲慢が勝る。これ以上は無理だと悟った虚飾はそれを流しもう一度下から切り上げようとした。
 その時、傲慢は虚飾の背後から飛びかかる白い影を見た。
「何ッ」
 虚飾の首に絡みつく白い袖。突如襲いくる攻撃を彼は咄嗟に躱し素早く蹴りを入れるが、それも彼女の反射神経には及ばない。二回のバク宙の末、女は美しく着地してみせると不満そうな顔をしてまた構えに入った。
「ん〜む、やっぱり後ろからは上手くいかないな……」
「嫉妬! お前どうしてここに、ってか今の今まで何やってたんだよ!」
「え、っとね……何でもないヨ!」
「何でもないわけあるか!」
 これまでの心配は何だったのだ。元はと言えばこの状況も、彼女が今朝にいなくなっていなければ生まれなかったというのに、当の彼女に助けられるとはこれ如何に。えへ、とウインクしてはぐらかす嫉妬に傲慢は一発殴って懲らしめてやりたかったが、今はとてもそんな状況ではない。
「ともかく、傲慢くんを殺されちゃあ困るんだよねぇ」
「馬鹿な、もう嗅ぎ付けられたのか。今日は駄目だ! ユウリ、撤退するぞ!」
 そう虚飾が憂鬱に向かって呼びかけた時である。
「まさか、こんなことって……」
 檻の前で先程から牽制を繰り広げていた強欲と色欲、そして憂鬱の様子がおかしい。皆瞠目して見るのはただ一点。檻の中の少女だった。
 暴食はいつの間にか目覚めていた。それは強欲、色欲としても好都合だ。しかし、一つ厄介なのは、手に負えないものまでもが目覚めてしまっていたという事。
 目覚めた彼女は、鉄でできた檻をいとも容易く噛み砕き、咀嚼し、嚥下する。そんな奇妙な光景を、彼らは固唾を呑み見ていることしか出来なかった。誰も触れることが出来ない。そうして暴食は自分が通れるだけの穴をあけると、外へ這い出てきた。
「じょ、嬢ちゃん。自分で出られたんだな。良かった、さあこっちだ」
 いち早く正気に戻った強欲が立ち尽くす彼女に向かって声をかける。その声に反応するように、彼女は、否、《彼女たち》は、三つの頭を強欲に向けた。爛々とした四つの緑の目に、涎を垂らす異形の双頭。ただ、暴食自身の瞳だけが虚ろに宙を見つめている。
 《暴食》は背中のナイフとフォークを抜きながら、強欲にゆっくりとにじり寄ってくる。強欲は彼女に起きた異変に気づき、後ろに後ずさった。様子がどうもおかしい。狐の逃走本能が咄嗟に来るな、と声を出しそうになったが、自分から呼んでおいてそんなことを言える筈もない、と年端もいかぬ少女を思うだけの理性はまだ残っていた。こんな時はどうすれば良いのだろう、と続いて頭を巡らせていると、《暴食》は急に唸り声とも言える声を発しながら強欲に向かって駆け出しナイフを振るった。
「うわっ!」
 大きく振るわれたそれを、手にしていたステッキでなんとか受け止める。だが、ステッキを持つ手に二つの頭が食らいつこうと首を伸ばして牙をむく。噛みつかれる直前、強欲はステッキから短剣を引き抜く流れでナイフを押し返し、後方に飛び退いた。
「おい暴食! 一体どうしちまったんだよ!」
「傲慢様、支配です! 暴食ちゃんの目を!」
「ああ! ――暴食、『止まれ』!」
 色欲の言に傲慢が左目を《暴食》に向け言い放つ。しかし、《暴食》の暴走は止まらない。強欲をターゲットから外すと《彼女たち》の目に次に止まったのは憂鬱だ。
「何で、何で効かない!」
 嫉妬に支配が通らないのは傲慢もわかっていた。だが暴食にも通じないというのは何故なのか。改めて自分の能力について思い返す。傲慢の力は、左目を通して相手の意識を手に取ることで、対象を自分の思いのままに操るものだ。念力ではない。非生物は勿論、思考するだけの知性のない生物にも通用しない。そして、当の暴食自身は意識を失っている。今この瞬間、彼女は傲慢の能力の対象外となっていた。
「きゃ――!」
 その場を動くことの出来ない憂鬱に、武具をかなぐり捨てて獣のように走る《暴食》が飛びかかる。「憂鬱!」と、虚飾が彼女のもとに駆け寄り刀を構えた。
「させねえよ!」
 《暴食》に虚飾が斬り掛かる直前、傲慢が走り込んで虚飾と憂鬱に体当たりをし、まとめて押し飛ばす。両者の牙と剣は互いに空を切った。
「あんた、何をしてくれる!」
「憤怒が家で寝てるんだ、あいつがいない間にお嬢に血を流させる訳にはいかねえんだよ!」
「そんなことを言っている場合か! 見ろ、あの様を!」
 床に倒れ込んだ三人は急いで立ち上がると《暴食》に向き直る。《暴食》もまた、ゆらりとこちらへと首を向けた。
「とんでもない大罪だな、我を失っているどころの話じゃない。躊躇いがあるのなら俺が始末してやっても構わないが」
「お前が斬りたいのはオレの首だろうが、余計なものまで奪ってくれるんじゃねェ」
 両者が睨み合う中、憂鬱は場を離れ壁の方へと逃げる。その時、扉が軋んで開く音がした。誰もが《暴食》に気を取られている。だから、誰も新たにこの部屋に人が加わったことに気が付かない。
 その人物はふらつきながらも部屋の中央へと進む。まず初めに強欲がそれに気づき、続いて色欲が「え」と声を漏らし、また嫉妬は彼の姿に呆然とし、最後にその人が《暴食》を挟んで傲慢と虚飾の前に立ち塞がった時、二人は漸く、傷だらけの男が混乱に包まれた空間に足を踏み入れたことに気がついた。
「憤怒……お前……」
「あんた、この傷でどうやって」
 彼――憤怒は、その言葉には答えない。彼は無駄を嫌う。必要最低限のことしかしない。だから、ゆっくりと膝をついて手を広げ、ただ一言。
「お嬢」
 そう、彼女に向かって、呼びかけた。

「ねえ。あにさまは、わたしのこときらい?」
 七顚屋にきて数ヶ月たったある日のこと。唐突に憤怒は、手を繋ぎながら横を歩く暴食にこのように尋ねられたことがある。突拍子のない問いに面食らった憤怒は、思わず足を止めて聞き返してしまった。
「どうしてまたそんなことを。私にお嬢より大切なものなど無いといつも言っているだろうに。それとも何だ、私のことが嫌いになったのか?」
「ううん、違うわ。そうじゃないの。でもね、たまに思うことがあって」
 こちらを見ないまま、暴食が続ける。
「あにさまがわたしを大事になさるのは、わたしたちのことがとってもこわいからじゃないかって。もし、そうなら、わたしなんていないほうがいいよねって」
 振り絞るような声に彼は彼女の抱えていた不安を感じとった。だからこうして微笑を湛えて膝をつき、目の前の彼女を抱擁し、こう言うのだ。「私がお嬢を大事にするのは、私がお前達のことを何よりも愛しているからだ。そうでなければ――」

 そう。そうでなければ。

「憤怒!」
「暴食ちゃん!」
「おい、何やってんだよ!」
 もう周りの声は聴こえない。彼は、彼が今やるべきことをしに此処へ来た。彼女が、一人で寂しい思いをしないように。孤独に涙を流さないように。不安に押しつぶされないように。大切なことを、思い出せるように。

「お嬢。美味いか」

 愛していなければ、こんな愚かな真似などしなかった。

「いいか、お嬢。目を覚ますんだ。自分の力で。私がいなくても、自分で、歩いて行くために。もう誰も、お前を傷つけないように。お前が、誰も傷つけないように」

 これは、彼女が今乗り越えるべき壁だ。だから、これ以上は何もしない。

 私は、お嬢を信じている。