file5: WRATH CONCERNS SLOTH

 着替えを済ませ浴室から出た怠惰は、水の一口でも飲もうかとキッチンに向かう途中で、事務室のドアから漏れる光を見た。夜も遅いというのに、誰か仕事でもしているのだろうか。気になった怠惰の足は、仕事場の方へ向いていた。
 そっと室内を覗いてみれば、デスクに向かう影が一つ残っている。憤怒だ。額を押え渋面でパソコンに向かっているが、手はあまり動いていない。進捗は芳しくないように見えた。
 集中している彼の邪魔をしては悪い。そう思い、その場を立ち去ろうとしたのだが。
 ――キィ。
「あっ」
「誰かいるのか」
 手にしていたタオルをドアノブに引っ掛けてしまい、築数十年の屋敷の扉が嫌な音を立てる。流石に気づいたらしい憤怒の声がドア越しに聞こえた。そのままこの場を離れるかどうか、数秒の思案の後、怠惰は観念して姿を見せることにした。黙ってやり過ごす方が、かえって彼を苛立たせてしまいそうだという懸念からだった。
「ぼ、僕です……その、邪魔してしまって、ごめんなさい……」
「怠惰か。いや、構わん。風呂が空いたから呼びに来たのだろう? 私こそ気を遣わせて悪かった」
 怠惰の顔を見るなり、憤怒は意外にも謝罪の言葉を返してきた。と同時に、怠惰は己の役目を思い出す。風呂から上がったら最後尾で待つ憤怒に声をかけなければならなかったのだ。そのことをすっかり失念していた怠惰は、二つの意味で安堵の息をついた。
 このまま自室にそそくさと帰るのも愛想がないように思えて、怠惰は事務室に入ることにした。憤怒の席に近づいてみれば、彼の机の上には煌々と輝くデスクトップの画面と、いくつかの書類がある。整然と並んだそれらは憤怒の性格をよく表していた。
「あんまり、仕事、進んでないの……?」
「いや。作業自体は済んでいる、のだが……明日の依頼について考えていた。少し思うところがあったのでな」
 そう言って机の上の紙を一枚とって怠惰に渡す。依頼人の氏名をはじめとした個人情報や依頼内容、そして店側で事前に調査した事柄が並べられてあった。今回の依頼は「護衛」。シガ出身の御曹司らしいが、何の用があってかマキアに訪れたはいいものの、敵対企業の差し金に目をつけられそのまま宿泊先に釘付けになってしまったということらしい。
 憤怒の手元でマウスがカチカチ、と鳴らされると、モニター上に画像が開かれる。かなり遠くから撮影されたようだが、窓越しに男の横顔が写っていた。それを見るなり、憤怒が一つ溜息を吐く。
「今回の依頼で保護対象になっている男。彼は私と同窓の者だ」
「どう、そう?」
「……同じ学校に、通っていたということだ」
 同窓、学校。聞きなれない言葉を反芻する。教育とは縁の遠い怠惰にとっては新鮮な響きだった。学校という場所は、机が沢山並べられていると聞いたことがある。先生がいて、子供達が一緒になって勉強をするらしい。断片的な情報で、教室とやらの風景を脳内で組み上げてみる。
 パソコンの電源を落とし、憤怒が立ち上がる。暗くなった画面に自分の顔が反射した。
「喉は乾いていないか」
「え、と……ちょっと」
 脈絡のない問いにまごついている間に、憤怒は部屋の扉に手をかけた。
「そうか。ついてこい、何か淹れてやろう」

 憤怒が冷蔵庫からパックを取り出し、二つのカップに牛乳を注ぎ入れている。それらをレンジの中に並べ、適当な時間を設定して加熱を始める。
 その様子を、ダイニングチェアの上で膝を抱いて怠惰は眺めていた。毎日皆で囲んでいる食卓も、静かな夜更けに二人きりだと全く違う空間のように思えた。冷蔵庫ってこんなに大きな音を立てていたっけ。ここの照明って、半分だけ点けることもできるんだ。このテーブル、いつも六人分の料理を乗せているんだな……。
 戸棚から粉末コーヒーの瓶と匙を取り出しながら、ジヴルが口を開く。
「貴様は、どうして『罪代』になった」
「どう……?」
 突然の質問の意図をはかりかねる様子の怠惰に、ジヴルが付け足すように続ける。
「ああ、どうして、というのは理由を問うているのではない。過程だ。罪代は皆、死の間際に原罪がそうさせるものらしい。貴様も、例に漏れずそうなのかと思ってな……答えづらいなら無理にとは言わないが」
 ここに来た時に、傲慢や強欲から自分の今の状態について説明を受けたことを思い出す。ようやく彼の言いたいことを理解した、が、それにしても怠惰は「んー……」と中途半端な相槌しか返すことができなかった。
「答えづらい、ってことはないんだけれど……僕、その時のこと、よく覚えてないんだ。雇い主さんのところから逃げて、家に帰ったら誰もいなくて、疲れて気を失っちゃって……気づいたらここに連れてこられていたから、その時、なのかなあ」
「そうか」
 簡素な電子音のメロディが会話の区切りを示すかのようにレンジから鳴り響いた。憤怒はカップの一つを怠惰に寄こし、もう一つに挽かれた豆の粉を数匙落としてかき混ぜる。怠惰はまだ熱いカップをそっと両手で支えながら、憤怒のミルクが茶色く染まっていくのを眺めていた。もう夜も遅いというのに、こんな時間にコーヒーとは。寝る気はあるのだろうか。
 スプーンとカップがぶつかり合う音が止む。
「私は自分で死のうとしたのだ」
 突拍子のない台詞。熱を冷ますために吹こうとした息にブレーキがかかって、代わりに柔らかな吐息が漏れた。
「自分で?」
「そう、自分で」
 憤怒がコーヒー牛乳に口をつける。真似をするように自分も、と手元のそれを一口含んだら、思ったよりも熱くて舌を火傷してしまった。バレないように、舌先を歯で噛んで誤魔化しながら、耳を傾ける。
「――私が『憤怒』になる前のことだ。代々狼であることを隠して人の社会に溶け込み、その地位を築いてきた一族。その家に生まれた落ちこぼれが、私だった」
「落ちこぼれ……? ふんぬさんが?」
「そうだ。人になりきるのも下手、よくできた姉に比べて物覚えも悪い、体格も今一つ。今もずっと、耳は獣のまま」
 憤怒の顔を見上げる。彼の顔の横には、髪に紛れて目立たないが確かに人のものではない耳が備わっていた。本当ならば、これを人のものにすることもできるということなのだろう。てっきり、彼がよく狼の姿になっているのを罪代としての能力なのだとばかり思っていた怠惰は、これが元から持つ性質なのだということを凡そ理解した。
「学校では周りから優等生だと評価されたが、それも家が求める基準には達していない、並の程度でしかなかった。厳しい言葉を多くかけられた。より優秀で在れと抑圧を受けた。私の意思が介在する余地は何処にもなかった。何より、親の期待に応えたかった私自身が、私を強く縛った」
「期待に応えたい……っていうのは、ちょっと、わかるかも。僕も、家族のためにって思って、色々なことをしたから……」
「……貴様の純朴なそれとは違うな。私は、利己的な願いの元でそれをしていた」
 少し躊躇いの滲む自虐だった。これを庇う言葉を怠惰は持ち合わせてはいなかった。
「それでだ。ある時、私の中で何かが切れた。誰もいない日暮れの教室で、花瓶を落として割ったのだ、故意に――物が壊れる音というのは本当に不快だな。だが、それすらも心地いいと思ってしまった」
 憤怒は自嘲的に鼻で笑った。怠惰は自分が食器を割って、屋敷の奥方に酷く罵られた時のことを思い出した。
「バレちゃったの?」
「バレた。それもすぐにな」
 当時の再現をするかのように、憤怒が振り返って部屋の入口を見ている。
「これまでの私なら、鞄を引っ掛けてしまったのだとか何とか言ってどうにか取り繕っただろうし、相手もそれで信じてくれたろうな。だが、あの時の私はもう焦りすらしていなかった。そいつに、堂々と向かい合っていた。もはや自白しているようなものだった」
 夕日が差し赤赤と染まる教室の入口で、一人の生徒が少し困ったような顔をして立っている。
 彼は尋ねる。それは君がやったのかと。
 憤怒は答えた。ああ、そうだと。ならば、どうするのだと。
「するとそいつはこう言うのだ、『それでいいんだ』と」
 男子生徒は言う。だってお前、何言われても何させられても怒らないじゃん。面倒なこと押し付けられて、楽しいことも取り上げられて、それでも貼り付けたような顔でニコニコしてさ。たまには、周りに怒ってやればよかったんだよ。自分の意見、通してみたらよかったんだ。
 憤怒は、何も返すことができなかった。その通りだと思った。一方で、そんなことはできるはずがないとも思った。自分の手足は既に諦めるに十分な数の鎖で縛られていた。
「妙に納得して、でも本当に、怒るということがどういうことなのかわからなかった。だから、その日の夜に、私は家を出た。後はわかるな?」
 そうして彼は憤怒になったのだろう。怒り方を知らなかったから、怒りの感情を植え付けられたのだ。眉間に皴の寄った、彼が出来上がったというわけだ。
 カップを両手で煽る。今更ながら砂糖の一匙でも入れれば良かった、と目を逸らす。いつもは口うるさい憤怒だが、今の彼ならなんだか許してくれそうな気がした。
「今回の顧客はその時の級友だ、というわけだ。特段、つきあいがあったというわけでもない。ただのクラスメイトの一人だが、そういうことがあったから、正直あれとどういう顔をして会えばいいのやら見当もつかない。別段足踏みするようなことでもないが、意外にも感傷に浸っている自分がいた」
「あれ。でも、その人はふんぬさんのこと、今は――」
「無論覚えていまい。罪代になった者は元より無かったことになるのだから」
「だったら……」
 気にすることはないのだろう。実際、怠惰は怠惰になる前に傲慢に出会ったが、七顚屋を仕切る傲慢は怠惰のことをすっかり覚えていない様子だった。一瞬、少し複雑な気分にはなったが、今は問題なくやれている。
 だが、憤怒は静かに首を振った。
「もしかすると、怖いのかもしれないな」
「怖い?」
「私の背を一度でも押したあれが、獣人としての私を見て、軽蔑の眼差しを向けるかもしれないと。今更そんなことを……気にしているのかもしれない」
「……大丈夫だよ」
 根拠のない言葉がつい滑り落ちた。憤怒が顔を上げてこちらを見ている。
「その人、多分……多分だけど。そういうこと、思わないんじゃないかな。ふんぬさん自身を見てくれたから、そう言ってくれたんでしょ? 今もきっと、変わらない、と思う」
 だから、今の憤怒さん自身を、見せてきたらいいんじゃないかな。
 憤怒が目を丸くしてカップを下ろした。そんな顔で見られたって、こんなことを口にして、一番驚いているのは怠惰自身だった。
 眼鏡を外して、ポケットから取り出したハンカチでレンズを拭きながら憤怒が失笑する。
「そうだな。彼奴の性根も、私が受けた言葉も、変わらない事実だな」
「うん」
「妙な話をして悪かった」
「ううん」
 曇りのとれた眼鏡をかけ直し、憤怒がコーヒーを飲む。幾分か、先刻よりも晴れた顔つきをしているように思えた。
 彼がこういう打ち明け話をするのは意外だったが、少し距離が縮まったような気がして嬉しく思う。
「ここでの暮らしにはもう慣れたか」
「あ、うん……まあ」
 おずおずと答えながら、怠惰もぬるくなってきた牛乳を飲み下す。
 とうの昔にもぬけの殻になっていたその家で、ただ一人飲み食いもせずに眠り続けていた自分を強欲が連れ帰ってから一か月が立とうとしていた。眠りに落ちた時から数えて経過することおよそ五百日、目が覚めたと思ったら知らない場所に置かれていたというのに、あまり驚かなかった。覚えのある緋色の髪の少年がいたからだった。
「仕事は全然、だけど……みんな優しいから、居心地はいいなって」
「なら、良い。私は今だ慣れないがな」
「え、そんな感じは、しないけど……」
 カップを煽る憤怒が、深く息を吐いた。
「毎日家の中は騒がしいわ、常識のない調子に乗った子供に振り回されるわ、おかしな依頼ばかり来るわ……私の知っている生活とはかけ離れている。落ち着かん」
「そっか……全然、そんな風には見えなかったなあ」
 ここでの生活は毎日が新しいことばかりだが、怠惰は憤怒がすっかりその一部になっているように感じていた。現に、「落ち着かん」と言った彼の横顔は、不服を感じるものではい。彼はきっと真面目すぎるのだ。求められる型にはまろうとし続けてきたから、型のない毎日に少し驚いているだけで。人は首輪を付けて歩かなくてもいいんだと、わかろうとしている途中なのだろう。
 ふあ、と一つ欠伸をして、怠惰はのっそりと立ち上がる。空になったカップを流し台に置いた。襲ってくる眠気は、彼に後片付けという選択肢を与えるつもりはないらしい。
「いつか……慣れるといいね」
 もしかしたら、気づいていないだけなのかも。
 「は?」と声をあげる憤怒を置いて、怠惰は挨拶もせずにキッチンを出ていった。

「どいつもこいつも、何に気がつけと……」
 そう呟いて憤怒もまた欠伸をし、そこではたと気づく。まさか彼の欠伸を移されたわけではあるまいな。
 してやられた、と頭を抱える。出した食器の片づけの後、これから風呂にも入らねばなるまい。その後にも済ませておきたい作業がいくつかあったからコーヒーを淹れたというのに、このままでは有無を言わさず眠りに落ちてしまう。人畜無害な顔をして、結局あの少年も自分を振り回すではないかと目を擦った。
 せめてこの場で眠りに落ちることは勘弁願いたいと、憤怒も明かりを消してそそくさと台所を出た。