file04: LUST FOLLOWS PRIDE

 定位置である事務所奥のデスクに座る、緋色の髪の少年。退屈そうに虚空を眺める彼の元に、珈琲が運ばれてきた。
 立ち上る湯気を目で追う。深みのある芳香が部屋の中に広がっていった。いつもいつも気が利くなあと思いつつ、もう一つのコーヒーカップをデスクに置いた美女の方を見やりながら、彼は目の前のそれに手を伸ばし――
「強欲。何のつもりかは知らないけれど、バレてるわよ。元に戻りなさい」
「……」
 彼は眉間に皺を寄せ少し拗ねたような表情を見せると、椅子から飛び降りる。同時に彼の体が少し膨らんだかと思うと、途端に容姿が変化して、そこには狐のような耳と尾を持つ男――強欲が立っていた。普段着であるジャケットの襟を正しながら、口をとがらせている。
「ちぇー、今度はバレないと思ったんだけどなぁ」
「放っているオーラが傲慢様と貴方とではまるで違うのよ。千年経ってから出直すことね」
 そう言い、色欲は珈琲を啜る。手を伸ばす仕草、長い髪をかきあげる様、一つ一つの動作が齢二十のものとは思えないほどに艶やかだ。これまでどれほどの虫たちを虜にしてきたのだろうか。花売りをやめたことで誰も手の届かない高嶺の花と化した彼女と、ひとつ屋根の下で暮らす男がいる、などと知れれば恨みの一つや二つでも買いそうだな、と笑う。
 強欲は改めてカップを手にし、珈琲を口に含んだ。口いっぱいに広がる苦味の後に、鼻の奥から心地よい香りが抜け、そこで漸く思い出す。傲慢は珈琲をブラックでは滅多に飲まない。彼の飲む珈琲にはミルクと砂糖を、いつも運んでくる前に色欲が彼の好む分量丁度に入れてくるのだ。強欲は自身の顔が映る真っ黒な水面を見ながら息をつく。要は初めからお見通しだったというわけだ。
 熱いそれを一気に喉に流し込む。舌先に仄かな苦味を残したまま、再び会話を始めた。
「いや、でもさ。見た目は完璧に同じだったろ? 変に喋ってボロ出したわけでもないのに、そんなすぐ見抜かれちゃったら俺っち、自信なくしちゃうなあ」
「狐七化け狸は八化け、とも言うし、もう少し修業がいるんじゃない? 今更狸になれだなんてことは言わないけれど」
 色欲がそう言って上品に笑う。佇まいからしてそんなに大根役者だっただろうか、と悔しがらずにはいられないが、或いは。
「ま、私も傲慢様だったからこそ気づけたのだと思うけれど」
「やっぱそういうこと?」
 であれば狐としての面目も保たれるというもの。彼を心から慕い、常に隣でその様子を見ている彼女にしかわからない傲慢らしさというものがきっとあるのだろう。だとすれば、表面でしか物事を捉えようとしない強欲にはその微細までを再現するのはきっと不可能に違いなかった。
「にしても、色欲もよくやるよなあ。いつも偉そうで自分勝手、ましてやまだあんなに若いガキだぜ。余程の恩義か弱みでも握られてなけりゃ、アレの側近なんてやってらんないよ」
 そんな餓鬼の誘いで自分もこの同じ屋根の下にいるわけだが、それは棚に上げておき、端から見ればやはり二人は不思議な組み合わせだ、と思う。
 色欲の傲慢への忠誠が生半可ではないことは、この家では誰もが知ることだ。しかし、その理由を知ろうとは誰もしてこなかった。それは、疑問を抱かせないほどに二人の関係が当然のものとしてそこにあったこともそうだし、その間柄に立ち入る隙の一つも見えなかったからでもあった。
 だから強欲は、気になった。あんたみたいなよくできた女なら、付き人する相手なんか選び放題だったろう。それでも彼を選んだ理由は一体何処にあるのか。自分が二人と出会う前に、何があったのか。
「……そんなに気になる?」
「次のロトの三等の当籤番号くらいには」
「まあまあ興味あるじゃないの」
 カップに口をつけてから、色欲が反撃する。
「それなら貴方の昔話と等価交換くらいはしてもらいたいものだけど……」
 と零せば、途端に強欲はバツの悪そうな顔をした。どうしても触れられたくはないらしい。
 数秒後、先に折れたのは色欲だった。コーヒーカップをテーブルに置き、デスクに座る。
「いいわ。暇だから、一人の女の話をしてあげましょう」



 少女の朝は、耳元を這う虫の足音に始まる。

 生臭い台所を離れて、洗面台の前に立って、顔を洗う。痣だらけの化け物が、不幸を振り撒くような表情で、私を見ている。私は、本当にこの顔が嫌いだった。というより、自分が嫌いでならなかった。
 寝室を覗くと――私は滅多に寝室で寝かせてはもらえなかった――母が薄い布団の上で横になっている。怯えながらそっと肩をゆする。すると、眉間にしわを寄せたまま母は目を覚まして、起き抜けに私の肩を掴んで突き飛ばす。立ち上がり、汚物を見るような目で私を一瞥して、舌打ちを残して部屋を出る。こんな酷い仕打ちを受けるなら起こさなきゃいいって? 起こさないともっと酷い目に遭うのよ。
 マキア自治区から少し離れたその街にある、古びたアパートの一室を出て、母は薄給の仕事に出かける。すると私は一人になった。この家に父親なんてものはいない。私の身体を流るる血を作ったそいつは、母に迫るだけ迫って、姿を眩ませた犯罪者なのだから。しかも、母は普通の人間で、男は獣人。なれば、望まれない生を受けた私も勿論獣人だった。奴隷制度も横行していたあの街で、私みたいなものが嫌われない道理は、無かった。
 家にいる間はずっと本を読んでいた。学校には行かせてもらえなかった、否、そんなものがあることすら知らなかったから、部屋の中にあった本を読んで読んで読んで、どうしたら母の役に立てるか考えた。洗濯もした。掃除もした。料理だってした。でも、ありがとうの一言すら貰ったことはない。そんなだから、自分の作るスープが美味しいのかどうかも、この歳になるまで判別できなかった。夕飯を食べた後、酒を飲んで潰れた母に毛布をかけて、台所のマットの上で横になり、一日を終える。張り詰めた空気が満ち満ちたこの部屋の中で、こういう日々をひたすらに繰り返していた。
 母はきっと、私のことを受け入れようと努力はしていたのだと思う。そうでなければ、この暮らしは無かった筈だから。けれど、歳を重ねるにつれてあいつの顔によく似ていく私の姿が、貴方を苦しめていたのでしょうね。花弁よりも薄くすり減った精神は、涙の代わりに暴力の雨を私に浴びせた。尻尾を切られそうになった時は、流石に抵抗して泣きじゃくったっけ。
 辛い気持ちが渦巻く中で、ある朝、「愛」という言葉をブラウン管の向こうに見て、胸にストンと落ちるような感じがした。
 そうか、私は愛に飢えていた。愛されたいと願っていた。それなのに、この狭い七畳半で完結する世界で、唯一知る人は己のことが憎いらしい。これじゃいつまで経っても満たされる筈はない。
 だから、私も同じ様に顔も知らない父を憎んだ。母を狂わせたその男を、誰が赦しておけようか。ええ、ええ、今決めた。お前を絶対赦しはしまい。地獄の果てまで追ってやる。いつかこの部屋を出られたら、お前を殺して自分も死のうと、そう決意した。そうすればきっと母はまともになれる、私は愛されて報われる。確信した。多分、十四になったばかりの頃だ。
 その一か月後くらいだった。今でも鮮明に覚えている。
 陽の光も見えない寒い冬の日、疲弊しきった様子で私をベランダに連れ出したお母さん。
 ここ三日間、何も口にできなかった私には抵抗する余地すらなかった。あの時抱いていた燃えるような復讐心も消し飛んでいて、想定よりも部屋を出る日が来るのが早かったなとだけ思った。これで彼女が救われるのであれば、もはや本望のような気がしていた。
 まだ中身のある酒瓶。綿の飛び出たぬいぐるみ。お世辞にも暖かいとは言えなかった寝床。その下に隠してあった沢山の本。一つ一つに目でお別れを言いながら、引き摺られるままに部屋を横切っていく。窓が開くと、冷蔵庫の中から溢れたような空気が薄着の私を刺した。身体が持ち上がって、腹が手すりの上に乗った時に、ふとお母さんの顔が見たくなった。
 振り返る。落ちる間際、視界の端に映ったお母さんは、思っていたよりも私を憐れむ目をしていて。
 これで良かったんだと思って。全部終わるんだと思って。
 ほんの一瞬だけ、体が自由になったような感覚のあと、酷い音がして。
 頭が痛くて。
「あれ……」
 ――生きてる?
 打ち所が悪くなかったらしい。最悪だ。痛い思いをするだけして、私は最後の最後まで母が望む通りにはできなかったのだ。この時ばかりは、神様だって恨んだ。
 それでも、このまま放っておいてくれたら、私は静かに息を引き取れただろう。しかし、またも運の悪いことに、一人の男が私の前を通りかかった。
 霞む視界の中で、通りすがりの白装束が此方に近づいてくるのが見えた。横たわる私の顔をじっと見て、静かに頷く。彼は、本の一ページを破いて丸めて、それを私の喉へと押し込むとこう言った。
「『色欲』。君は、寵愛を受けるべき仔だ」
 嚥下。そこで意識が一度途切れた。
 次に目が覚めた時にはよく知らない歓楽街の建物の陰にいた。
 立ち上がって、恐る恐る表通りに出てみる。やけに視線が私を刺した。不審に思いながら辺りを見回していると、ショーウィンドウ越しにその理由を見つけて、絶句した。
 そこに映る私は、私の知っている私などでは無かった。
 痣だらけだったのが嘘のような、陶器の如き白い肌。清流の様に綺麗な髪、整った顔立ち。誰もが目を見張るその身体。信じられなくて、何度も触れて確かめた。目の前に映るその女は、確かに私だった。蠍の血を引いた尾だけはどうにもならなかったけれど、思い出せない己の名と引き換えに、自分はこれを得たのだと、その時はっきりと悟った。
 それからは、街を歩けば人が寄ってきた。誰もが私を宝石のように扱い、欲しがった。生まれて初めて、他人に大切にされているような気がした。愛されてる? ええ、多分、そう思った。それが嬉しくて仕方なかったから、己の身体をただひたすらに売って愛と金を得た。同業の人の元で色々と教えてもらいながら働いた時もあったし、一匹狼でふらついていることもあれば、家を貸してくれる奴なんかもいたけれど、兎に角そういう風にして数年過ごした。すごく、心地よかった。
 のに。
 ある時抱かせた男が私のことを撲って。
 それで目が覚めたような気がして、数秒後、私の上に尻尾で腹を貫かれた死体が覆いかぶさっていた。ああ、やってしまった。金をとって、逃げるようにしてその場を去った。どうかしていた。この感触を、痛みを、心の痛みを、早く拭いたくて、開けた穴を埋めないとと思って、次の相手を見つけなくちゃと辺りを見回して。
 いた。丁度良さそうなのが。あれならさっきのより幾分はマシだろう、と声をかけて。
「ねえ、そこの貴方」
 口から出た声がまるで動揺を隠しきれていなかったから、媚薬を差して確実に仕留めてやろうって、気づかれないようにそっと尾を近づけて。
「物言う花のするべき所作じゃあないな」
 針先が至るまであと数センチ。私の尻尾は、誘惑は、いともたやすく払われてしまった。
 この姿になって、初めて拒絶された。私が? 何で? 理解できなかった。
「これは、違うの。別に、貴方を傷つけようとしたつもりはないわ」
「見てりゃわかるよ」
「ならどうして拒むの? 私を愛せるのよ」
「いや、そもそもそれって、愛じゃないだろ」
 胸にぽっかり空いていた穴の中央に、鋭く銃弾を撃ちこまれたような思いをした。
 惨めで空虚な自分のことを、見てみぬふりをしてきた、その事実を指摘されたことへの苛立ちが沸々と湧いてきた。見透かしたように言うじゃない。そうよ、私は快楽のために消費されていたのよ。それくらい、気づいてた。気づいていたけど。
「ならどうして愛を享受すればいいのよ! 私はそれしか知らない、知らなかったのに――」
 獣の手が差し出される。
 金色の目が私を見ていた。
「じゃあ、”オレについて来い”よ。いつか絶対、お前が本当の愛を知れるようにしてやるから」
 ああ。それは、迷い子を導く、真夜中の星のようだと思った。



「それはまたなんと『傲慢』な……」
「でしょう? 今思えば本当に、なんて口説かれ方をしたんだろうって」
 色欲は静かに微笑んで、それ以上は語らなかった。だが、きっとその言葉が全てだったのだろうと、強欲は理解した。これもまた一つの救いの形だったのだろうと。同時に、自分がそのような救済を貰うのはまっぴらごめんだな、とも思った。そんなことを考えているうちに何やら騒々しい声が近づいてくる。
「おい傲慢! 打ち合わせと話が違うぞ、いい加減にしろ!」
「うるせえなあ、誰もそんなこと最初から言ってねえっつってんじゃん。ちょっとくらい大したことないない。はい、お手」
「貴様ァ!」
 突然開け放たれたドアから二人の男が言い争いながら出てくる。今しがた話題にしていたばかりの傲慢と、つい最近七顚屋の一員となった新参の憤怒だった。軽口を叩きながら、傲慢の左目が光る。今にもこの世の全てを破壊せんと言わんばかりの形相の男が、年端もいかない少年に飼い犬のごとくお手をさせられている様は滑稽としか言いようが無い。
「まーたやってんよ、あの新参大丈夫かね。暴食の嬢ちゃんはすっかり懐いちまったようだけど、あの憤怒って奴は今にも店をぶっ壊して出ていっちまいそうな勢いだが」
 呆れた顔で言ってみると、隣の色欲はくすくすと笑う。その表情には、どこか慈愛を孕んだような温かみがあった。
「大丈夫よ。今に彼も気づくから」
「何にさ」
「さあ、何でしょうね。でもきっと、貴方も既にわかっていることよ」
 そうはぐらかしながら色欲はコーヒーカップを盆に載せる。奥へ下がろうとする彼女の真っすぐ伸びた背中へ、最後に強欲はこう問うた。
「結局、あんたは愛を知ることはできたのか」
「……ええ。確かに私は、愛を知ることができたと。そう思っているわ」