file06: YOU'RE MY HERO
紙の上を、黒鉛でできた芯がさらさらと走る。鉛筆の立てる心地の良い音に、暴食は不思議と安らぎを感じていた。
うっとりと紙に視線を落とす彼女の目の前で、怠惰はなおも手を動かし続ける。きちんと面を意識して引かれた線と線が繋がり、輪郭が浮き上がっていく。それは段々と人の形を成していき、気がついた頃にはこの家では誰もが知るその人の顔が紙の上に現れていた。
「まあ、これはごうまんさんね! すごいわ、たいださんにこんな特技があっただなんて。わたし、とってもおどろいたのだわ」
「えへへ、ありがとう。ほんと僕、これくらいしかできること、ないから……」
それはおよそ一時間ほど前のこと。新たに舞い込んだ仕事のために七顚屋の年長者四人が揃いも揃って駆り出されたことにより、まだ幼い暴食と新参者かつ年若い怠惰には『お留守番』の責務が与えられた。昼食後、欠伸をしつついつも通り枕を抱え自室に戻ろうとした怠惰であったが、ひとりちょこんとソファに座りじっと彼らの――とりわけ憤怒の帰りを待つ少女の姿を見ていたたまれなくなり、彼は二度目の睡眠を諦めたのであった。
万が一客が来たとして、いくらなんでも暴食一人に応対させるわけには、という責任感も勿論あった。だがそれ以上に、かつて同じように親の帰りを待っていた弟や妹の姿に重ねなかったといえば嘘になる。子供にとって、待つことは辛いことだ。ひとりぼっちはもっと辛い。それを知っていたからこそ、一瞬でも兄であった経験のある怠惰はそこにおらねばならぬ気がした。
しかし、如何せん怠惰はコミュニケーションというものがめっぽう苦手な男であった。相手が不快に思わない言葉選びをしようとひとたび考えだすと何も言えなくなる。思考が遅いから、話すスピードがゆっくりだという自覚もある。そもそも、話題の振り方がわからない。こんなだから、一対一の会話など論外だ。そこでどうにか二人きりの気まずい空間を対処できないか、と取り出してきたのが紙と鉛筆であった。
よって、そのお絵描きに安心感を覚えていたのは他でもない怠惰自身だったのだ。最後に筆記具を持ったのは数年前にも遡る怠惰であったが、問題なく自分が絵を描けていること、そしてその腕も大して落ちていないことに心底ほっとしていた。次第に当時の調子を取り戻していく。自分で何かを作り上げる、この感覚。こんなに心が満たされたのはいつぶりだろうか。
「たいださん、今、とってもすてきなお顔をしているわ」
「えっ」
思わず顔を上げる。口元でも緩んでいたのだろうか、と頬に手をやった。目の前にはゆったりと微笑む少女の顔がある。
「ごめん、どっか、変だったかな……」
「いえ、そんなことないのだわ。わたしのほうこそ手を止めさせてしまってごめんなさい……あなたのえがおが、いつもよりやさしくて、あたたかくて、楽しそうだったから」
「そっ、か……こういう時何て言えばいいんだろう。ありがとう?」
そんな返答にふふ、と笑みを洩らす暴食に、今度は自分から少し口角を上げて見せて、怠惰は作業に戻った。そうか、自分は思わず笑ってしまうほどに絵に没頭していたのか。
暴食に教えてもらったことで、怠惰は自分の中にあった大きな扉の鍵が開いたような気がした。靄のかかった何かが形を現して、ぽつり、ぽつりと、口から零れていく。
「……僕、小さい頃はね。絵描きさんになりたかったんだ」
それは幼い頃のささやかながら大きな夢。そして一度は閉ざされてしまった叶わぬ願いごと。丁度目の前の彼女の齢の頃の自分を想起しながら怠惰は語り始める。
「小さい頃からずっと、絵を描くことが好きだったんだ。絵を描くと、周りの人がいつも喜んでくれたし、何より、絵を描いてる時間が一番自由で、幸せな気持ちになれたんだ」
でもそんな時間は長くは続かなかった。彼は貧乏な家族を守るために、自らを売り払い奴隷としての生活をすることを選んだ。食事も必要最低限なら寝ることも満足にできない宿舎。劣悪な労働環境。絵を描くなんて以ての外の毎日。泣いて謝った母親と、わけもわからず送り出してくれた弟妹たちの顔も思い出すのが苦しくなった。どうにかして生きるのに必死になって、早く楽になりたいと願った頃には夢も希望も欲ですらも、何もかも失せていたことを思い出す。
「そんな生活を終わらせてくれたのが、ごーまんだったんだ」
「そういえば、たいださんはごうまんさんと前にもいちど会ったことがあるって聞いたことがあったけれど……それはその時のことなのかしら?」
「うん、そうだよ」
鮮明に覚えている。何もかもに耐えられなくなったあの日、柵の外の世界を見つめていた自分の手を引いて、無理やりに向こう側へと連れ出したのは間違いなく彼だった。数年ぶりに見た街の景色は昔のそれとはすっかり変わっていたが、色を失った怠惰の世界は再び鮮やかに色づいた。
「あの時、目の前に差し出された手が、本当に眩しかった。大きな手に自分の手が掴まれた瞬間に、『あ、僕、まだ生きてたんだ』って思えたんだ。ごーまんは……僕のヒーローなんだよ」
枷のない軽い足で辿り着いた、本来なら我が家が存在した筈の廃屋に、既に人の影はなかった。そこでとうとう眠りに落ちた自分は、どうやら気づかない間に大罪を与えられてしまっていたらしい。夢の中で出逢った、白に身を包む男が言う。少年。君はもう、何もしなくていいんだ、と。
ああ、僕はもう、何もしなくていい――安堵が胸に広がっていく。そんな中、ずっと頭の片隅に、小さな英雄の姿がチラついていた。
『なあ、お前。ここにいてちゃできないこと、やりたいと思わねえか』
彼の姿を思い出す度、心のどこかで声がする。そういえば、名前、聞き忘れてたなあ。
――僕のしたかったことって、なんだったんだろう。
「できた……」
鉛筆一本の濃淡で丁寧に仕上げられたモノクロームの人物画は、まるで写真そのものとまではいかずとも、暖かみのある良い絵だと暴食には思えた。怠惰から見た傲慢という人物の全てがそこには写っている。
「ほんとうにすてきだわ……! ねえ、わたしも絵をかいてみてもいいかしら!」
「も、勿論……ほら、ここに紙ともう一本鉛筆があるから、使って」
「ありがとう!」
絵を描いてこんなに褒めてもらえたのもいつぶりのことだろうと怠惰は暴食を見つつ、手放していた枕を手元に引き寄せる。まだ僕にも、他人を喜ばせることができたんだ。
目の前で小さな手に握られた鉛筆が、紙の上を踊るように線を描いていく。拙い線だが、そこにははっきりと彼女の慕う人物の姿があった。
「こんな僕でも、今からでも、夢見てた絵描きさんや……誰かのヒーローだとかに、なれるのかな」
顔を上げた暴食は一瞬驚いたような表情を見せ、途端に目を見開かせて言った。
「できるわ! たいださんならきっと、すてきな絵かきさんにだって、ごうまんさんみたいに誰かのヒーローにだってなれるわ! だって、たいださんがそうなりたいって、言ったんですもの!」
怠惰もまた、暴食の言葉にはっとした。
「ああ、ごめんなさい、わたしかってなこと言って……」
「ううん、そんなことないよ。……うん、そうだね。僕にだって、やれるかもしれない。僕の心にはまだ、やりたいって気持ちが、残ってたみたいだから」
『怠惰』を受け取ってこれまで、全てがどうでもよくなって、もはや生きることさえも面倒だとすら思いかけていた気持ちがどこかにこびりついていた。でも、そんな感情ともそろそろおさらばだ。
僕にもやりたいって思えることがあった。そう信じる心と、この命がある限り、きっと僕らは何だってやれる。これからも、日々を怠慢に消費していくことには変わりないのだろう。それでも、少しずつ、自分の夢に向かって、進んでみることをしてみたい。そう思えたのだ。
怠惰が大罪を受け取ったことで、傲慢はどうやら当時のことをすっかり忘れてしまっているようだ。彼が自分にとってどんなにすごい人なのか、今となってはそれを彼自身が知る由もない。あの時の彼はもういないのだ。それでも、あの日灯してくれた光がそこにある限り、彼が怠惰の永遠のヒーローであることに変わりはないのだろう。そしてその光を、今度は怠惰が誰かに分け与える番である。
時計を見ると短針が三時を示していた。そろそろ大人達も帰ってくる頃だろうか。
いつか、誰かの光になることを夢見ながら、枕を抱えた少年は深い眠りに落ちていった。