file10: REGRETFUL FOX WALK
暗い、暗い、夜の散歩道。
人気のない道沿い、ぼんやりと煌めく街灯の明かりの上を、跳ぶようにして往く少女が一人。
闇の中から、白い影が現れては消え、浮き上がっては暗がりの中に再び溶けていく。色の違うタイルを島に見立てて、一つ飛ばしに渡ることを繰り返しながら、少女は鼻歌を歌った。ステップを踏む度に、首元の大きなリボンがひらり、ひらり。
しかし、その黒い蝶結びの舞は突如として止んでしまった。少女――嫉妬が、歩くことをやめたからである。
嫉妬は廃ビル横の路地をこっそりと覗き込んだ。不自然な物音。何かいる。
じっと目を凝らして見れば、暗がりに蠢く人の影を認めることができた。皴の少ないスーツを身につけた、どこにでもいるようなパッとしない男。そいつが、地面に這いつくばっている。亀のような前進をしながら、男は茂みに手を突っ込んでは首を振り、ゴミ箱の下に、排水溝の中に手を伸ばしては、やはり思った通りにならないのか項垂れた。
「ない、ない……おかしいな、落としたとしたら絶対にこの辺りなんだけど……」
忙しなく辺りを見回してはぶつぶつとそんな言葉を漏らしている。その声にピンときた嫉妬はくだらない悪戯を思い付き、誰も見ていないのにも関わらず、にやけるその口元を手で押さえた。
足音を立てないようにそっと背後から忍び寄る。幸い、気が動転しているのか、相手が気づく様子はない。
五歩。
六歩。
七歩。
つま先が尻を蹴ろうかという距離まで接近したところで、嫉妬は目の前の男の背に飛びかかった。
「わーっ!」
「うわあああああああ!?」
深夜零時。獲物に襲われた男の情けない叫び声が、もう眠りにつこうとしていたマキアの街に轟いた。
「も~! 俺っちびっくりするのは死ぬほど苦手だって散々言ったじゃんか、やめてくれよ! 心臓止まるかと思ったよ」
「だって、何か面白かったんだもん。ね、強欲くんはこんなところで何やってたの」
壁に背を向けて三角すわりをした嫉妬は、隣で胡坐をかく強欲に問うた。嫉妬が驚かせた男というのは、強欲が通りすがりの一般市民に化けた姿だったのだ。彼の力では姿かたちはそっくり変わることができても、声だけは彼自身のもののままである。そのため、ふいに漏らした独り言から嫉妬はそれを見抜いたということだった。先程までは無かった狐の耳と尾が、彼女の目の前で揺れている。
強欲はアタッシュケースを抱え込みながら長く息を吐いた。
「別にぃ。嫉妬こそ、またこんな夜中に一人で何やってんのさ」
「わ! 質問に質問で返しちゃいけないんだ〜! 先に強欲くんが言ってくれるまで教えませ〜ん!」
嫉妬は強欲を指してわざとらしく糾弾する。嫌な指摘をされた彼は、げ、とでも言いそうな顔をした後、気まずさから目を逸らした。
「いや、俺っちは……別に、カジノからの帰りで……たまたま、その……」
歯切れの悪い言葉を並べ立てながら言い訳を考えるも、対する少女は不服そうにこちらを見ている。彼女のワガママは我らがリーダーでも御しきれないほどの筋金入りだ。こうなっては向こうも下がるまい。観念した強欲は、両手を上げて正直に答えることにした。
「わかった、わかったよ。素直に白状する。めちゃくちゃ大事な物をちょっと事故って落とした、そんで探してた。だから、その……なんだ、探すのさ……手伝ってくれないかな」
強欲は言葉を詰まらせながらも、真剣な面持ちで答えた。言った後に、少し後悔した。最後のは図々しかっただろうか、余計な一言だったかもしれない。
しかしその返答に満足した嫉妬は、すっくと立ち上がり胸を叩いて見せる。とん、と頼りない音がその場で鳴った。
「しょーがないなあ。いーよ、この嫉妬ちゃんが手伝ってしんぜましょー」
「……ほんとか!? いやー、神様仏様嫉妬サマ! ありがとうございます! 正直なとこほんと参ってたんだ、蛇の手も借りたいくらい!」
蛇に手はない。今度こそ余計だった一言に、いくら能天気な嫉妬も馬鹿にしているだろうと文句をつけたくなった。が、それよりも彼に対しての興味が勝ったので話を進めることにした。
「で、一体何を落としたの?」
その問いに、強欲はまた言葉にするのを躊躇うように一瞬口を噤んだ。感謝の意を示すために大げさに合わせた両手を離すと、左手の薬指を指しておずおずと話す。
「……指輪だよ。なんてことない、ダイヤが一粒埋まった婚約指輪さ」
「え! ウソ、強欲くんコンヤクしてたの!? そんな素振り全然見せなかったじゃん!」
「違う違う、俺っちじゃない! 俺のじゃ、ないんだ」
これは予想外の落とし物だ。心底驚いた。しかし、強欲は顔の前で激しく手を振りながら誤解をはっきりと否定する。
「俺の、好きだった人が、俺じゃない男から貰った指輪なんだよ」
「へ? じゃあなんでそれ――」
眉を寄せた嫉妬の顔を確認すると、強欲は指輪探しを再開するためにまた地に顔を寄せた。
これ以上話す気はないという合図だった。
嫉妬も彼に倣い、屈みこんで地面を注意深く観察することにした。暗くてよく見えたものではない。視界の片隅できらりと光った点に、これだと期待して近づいてみる。だが、よく見るとガラスの破片だったり何かの部品だったりした。一向に指輪らしきものは見つからない。
ひょっとすると、自分はとんでもないことを引き受けてしまったのではなかろうか。嫉妬は段々と不安になってきた。いい頃合いで諦めるように促した方がいいのかもしれない。眠さも相まって、アスファルトを撫でる手が雑になっていく。
そうして数分間無造作に手を動かしていると、ふと足元で金属音が鳴った。何か蹴ったろうか、嫉妬は数歩下がってみた。数秒前まで自分が立っていた場所を見れば、硬貨が一枚転がっている。それも、かなり新しい。少し得したような気分になり、拾い上げて月明かりに照らしてみた。帰りに自販機でジュースを買ってやろうと計画を立てると、心が浮足立ってくる。
自慢でもしようかと、後ろの強欲の方を向いた丁度そのタイミングで、ついぞ黙りこくっていた彼が背を向けたままいきなり口を開いた。
「指輪な。殺して、盗った。大事な物を奪われたくなくて、俺は自分の欲のために、あの男からサンを盗ったんだ」
突拍子のない発言に、呆気に取られて言葉を失った。掲げた硬貨が行き場をなくしている。
聞いてもいないことを淡々と述べるその男の背は、いつもよりもずっと小さく見えた。丸い後ろ姿がまるで捨てられた猫のように思えて、嫉妬は相槌すら打つ気になれなかった。
「後悔の毎日だ。あれから何年経った今でも、これっぽっちも変わらない。本能のままに、人を傷つけてでも何もかも自分のものにしようとする。理性のない獣。やだなあ、本当に嫌になっちまう。こんなに長い間、人に化けてきたってのに、いつまで経っても人になんかなれやしない。なんで生きてんだろうなあ。でも、それでも逃げらんないんだよなあ。サンは俺に呪いをかけたんだから」
一貫性のない無秩序な言葉の連なりは、まさに独り言そのものだ。極めて独善的ともとれる語りを終えると、強欲は自嘲的な笑みと共に視線を投げかけた。
「同情するか?」
「するわけないじゃん」
嫉妬が無表情で即答する。冷たい眼差しが不思議と似合っていた。
「アタシもキミも、ただの悪い子。とっくに一線踏み越えて、もう戻って来れないとこにいる。誰からも赦しなんてもらえないよ」
「うん、あんたならそう言ってくれるだろうと思って聞いた。……ごめん、今のは思いっ切り利用したかも。このまま見つからんかもしんねって思うと流石に怖くなって、なんというか責めてほしくなっちまった」
先に目を逸らしたのは強欲の方だった。欲しかった回答を得て、勝手に満足してしまった。
やっぱり似ている。強欲はそう思った。快楽主義で、排他的。傲慢とはまた違う、弱さからくる自己中心性。同じ性質を抱えているからこそ、彼女にだけは口を滑らせても構わないだろうと判断した。故の、自分語りだった。
時間も長引いてきた。小休止にと、ゆっくり立ち上がる。ぐっと伸びをしたその時、何か硬いものが右手に触れたのを感じた。
「あ!」
その様子を見ていた嫉妬が駆け寄ってきて、頭上を見上げた。つられて強欲もその視線の先を追うと、何やら細い紐のようなものが揺れている。ペンダントのチェーンと思わしきそれは、建物の外壁、二階部分に据えられた室外機に引っ掛かっているようだった。
強欲は、指輪をずっと首に下げて肌身離さず持ち歩いてきた。チェーンの先に恐らく繋がっているであろうそれを想起し、強欲は呟く。
「これ、多分そうだ」
「オッケー! アタシ、持ち上げたげるから見といでよ!」
「おう!」
差し出された両手の上に、猫に変化して飛び乗った。不安定な足場を、嫉妬がそっと持ちげる。足場の狭い室外機の台に飛び乗って、強欲は猫の手で慎重にチェーンを取り外した。引っ掛かりがとれたと同時に、鎖と共に丸いものが落下していくのが見えた。
「よっと!」
階下に構えていた嫉妬がそれを受け止める。強欲は慌てて台から飛び降り、元の姿に戻ると彼女の手の中のそれを覗き込んだ。
「これ?」
「これ!」
ダイヤが一粒埋め込まれた、なんてことのない婚約指輪だった。リングを受け取り、その中に千切れてしまったチェーンを通す。いつも首から下げていた大事なそれが、遂に自分の元へと帰ってきたことを実感した。
「……ああ、ありがとな、本当にありがとう。良かった、これでまだ償える」
「まさか下じゃなくて上にあったなんてね」
「な。猫か鳥かが持ってこうとしたんだろうなあ」
強欲は安堵のため息を漏らした。緩み切った表情を笑顔で見つめる嫉妬に気が付き、慌てて続ける。
「あのさ、今日のことはだな」
「内緒にしといて欲しいんでしょ」
「助かるよ」
ミッションを果たした二人は、細い道を抜けて大通りに戻って来た。明かりの殆どない路地裏とは大違いで、街灯はいつもよりも煌々と輝いているように思えた。この光は少し、眩しすぎる。
嫉妬は表へ出ると、強欲に尋ねた。
「……さっきのおしゃべり、七顚屋の誰にも言ってないよね。指輪だって、わざわざ別人にまでなって探してさ。そんなに、隠したいことだった?」
「まあ、ね」
強欲は空を見上げる。雲一つない夜空に、満月が浮かんでいた。
彼女は言った。君の名はあれからとったのだと。太陽と対になる存在、きっと親しみからその名を与えてくれたのだろうと考える。今では、交わることの無い二人を示しているようにしか思えなくなってしまった。
七顚屋は温かいところだ。きっと、弱音を吐けば寄り添い、その罪を寛容に赦してくれるだろう。だが、その優しさに甘んじたいとは思わなかった。貰った名も、過ごした日々も、彼女のことも、できるだけ全部独り占めにしたかった。なんて冷たい奴だ、と強欲は己を罵った。
「じゃあ、強欲くんにもアタシのヒミツ、教えてあげる」
「え?」
突然、嫉妬は強欲の前に躍り出る。一つだけ電球の切れた街灯の下、闇を身にまとって彼女は静かに言った。
「実はね。アタシのほんとの名前、『ナナ』っていうんだ」
「あんた、それって」
冷たい夜風が二人の間を吹き抜ける。寒さに思わず肩を縮めた。身震いをして再び前を向けば、そこには誰もいない。隣を見れば、嫉妬は既に戻ってきていた。
「はい、おしま~い。お互い、何にも、聞かなかったことにしようね。約束だよ」
「……ん、わかったよ」
強欲はそれ以上追及することをやめた。わからないことに深く首を突っ込んで明らかにしてしまうことは、そしてまたその逆も、彼の苦手とするところであった。知らないものは、知らないままでいいだろう。
彼の返事を最後に、会話は途絶えた。沈黙の夜に、虫の声と不揃いの足音だけが響いていた。
二人が並んで歩くうちに、視線の先に大きな屋敷が姿を見せた。すっかり遅くなってしまったし、戸締りもされていることだろう。家のことを思いながら、強欲はチェーンの切れたペンダントと指輪を、今日の記憶と共にそっと胸ポケットに押し込んだ。
生まれも育ちもバラバラの、赤の他人が身を寄せ合う家。ここで暮らすからこそ、自分は何者でもなく、また何者かで在れるのだろう。この関係を健全だとは思わない。ただ、少しでも長く続くといい。強欲は願う。今度こそ、見つけた居場所を失うことがありませんように。
「あっそうだ! あのねあのね、アタシ勝手にお散歩しにきちゃったから、もし傲慢くんが怒ってたら一緒に謝ってね!」
急に思い出したように嫉妬が騒ぎ立てた。
「いや知らねーよ! 一人で何とかしなさい!」
アタッシュケースを持ち直して、狐は駆け出した少女を追いかけた。