file8: TO MY DEAREST

 誰もいない事務室で、色欲は一人モニタに向かっていた。古い型のパソコンは静かな部屋の中で人一倍主張の激しい音を立てている。ずり落ちた眼鏡を左手で押し上げて、溜息を一つ吐いた。青い光が目に悪い。少し休憩したいな、と立ち上がって伸びをした。
 その腕を下ろしたところで、色欲はくいとスカートの端を引っ張られるような感覚を覚えた。何かしら、と振り向き辺りを見回すが、何か引っかかった様子もない。再び椅子に腰を下ろす。
「しきよくさん……」
 座面に体重を預けたところで、自分を呼ぶ声が聴こえた。振り返ると、衣服の端を小さな手で恐る恐る引いている少女の姿があった。なるほど、通りで自分の目線の高さでは気が付かないわけだ。無視をしてしまったようで申し訳なさを覚えながら、屈んで目線を合わせつつ、優雅に微笑みを堪えて色欲は返答した。
「あら、暴食ちゃん。どうしたの?」
 色欲の問いに、暴食はもじもじと俯きながらその小さな口で呟いた。
「あの……あのね、しきよくさん。おねがいがあるの……耳をかして、もらえるかしら?」
 そういうので色欲は言われるままに耳を傾けてやる。少女は周りに誰もいないことを確認すると、手で口元を覆いながらこっそりと頼み事を打ち明けた。可愛らしいその『おねがい』に、色欲は頬を緩める。
「――の。おてつだい、してもらえるかしら」
「まあ! そういうことなら喜んでお手伝いするわ。さ、早いとこ支度して出かけましょ」
「……ありがとう!」
 ぱあ、と笑顔を咲かせた暴食は、外出の準備をしに部屋へとかけていった。色欲は冬物の外套を羽織った後、机の引き出しからメモ帳と万年筆を取り出し、整った字でこう書いた。
『暴食ちゃんと出かけてきます。心配御無用 色欲』
 今日は傲慢と憤怒の二人は依頼で外に出ていた。強欲は夜明けまで賭博に勤しんでいたために一日中大きないびきを立てて居間のソファで眠り込んでいる。その隣で怠惰も寝こけていた。留守番は彼らにでも任せておけば良いだろう。
 駆け足で階段を下りてきた暴食を玄関ホールで迎え、二人は少し風が冷たい屋外に足を踏み出した。

 枯葉が石畳の上を滑り始めるこの時期の街は、平時よりもやや賑わって見えた。道行く人々は抱えるような荷物を持って店を渡り歩いている。隣を歩く暴食が、辺りを眺めまわしながら言った。
「いつもこんなにたくさんのひとがいるのかしら」
「今日は特別多いかもしれないわね」
 そう言って立ち並ぶ街灯フラッグを指す。金色でデザインされた文字と作物の挿絵は暴食にも認識することができた。
「今は収穫祭の時期なのよ。シガやデリルから良いものが沢山入ってくるから、皆こぞって買い物に出かけるの」
 へえ……と感嘆する暴食が人ごみに紛れてしまわないよう注意を払いながら、色欲は此度の外出の目的を反芻する。
『いつもしてもらってばかりだから、あにさまにプレゼントがしたいの』
 聞くところによれば、暴食が憤怒に拾われたのはこの時期らしい。そこで、彼に日頃の感謝を伝える贈り物をしたいということであったが、なるべく実用的なしっかりしたものを選びたく、しかし一人で買い物など到底できないため色欲に相談したというわけだ。憤怒のことだから手紙の一通でも喜んで大事にとっておきそうなものだが、日頃使える物をあげたいと言うあたり、幼いなりに彼のことをよく見ているのだろう。お小遣いもコツコツ貯めていたと言われれば、協力しないわけにはいかなかった。
「こういうところに来るのは初めて?」
「ええ……あにさまといた時は、なるべくおうちにいるようにって、言われていたのだわ。だから、お外におかいものに行くこともなかったかしら」
「そうなのね。こうやって、外からお店を眺めているだけでも楽しいわよね」
 七顚屋に来た際に、憤怒から大方の事情は聞いていた。彼に拾われるまでは故意ではないとはいえ街を荒らし、目をつけられていた少女である。実際、最後に暴食の存在が組織にバレた際には引渡しを命じられ、争いに発展したのだ。箱入りにしておくのも無理はないと言えばそうなのだろうが、一人憤怒の帰りを待ち続けた彼女のことを思うといたたまれない気持ちになる。
「どんなものにするか、もう決めてるの?」
「まだわからなくて……おこづかいのはんいで買えて、よろこんでくれるものって、なにかしら……」
 暴食が財布を開き、色欲に見せる。受け取った色欲は、中を覗いて大方の予算を把握した。この額で購入できそうな品を頭の中でいくつか並べ、見当をつける。
「まあ、実際に色々見て回って、ゆっくり選びましょう。時間はたっぷりあるわ」
 この先の交差点の向こうに、文具を取り扱う商店があった筈だ。まずはそれを目標に歩くことを伝え、財布を返した。
 賑わいの中、呼び込みをする声、笑い合う声、少し揉めているような声。足音と共に多くの会話が行き交っているのを耳にする中で、自分たちが歩く少し前、子供の声が飛び込んで、色欲はちらりと視線をやった。
「ねえお母さん、あれ買ってよ」
 暴食よりは幾分か大きく見える少女が、ケーキ店の前で母親と思しき女性の手を引いている。女性は両手に荷物を提げ少し困った顔で相手をしていた。
「あのね、今日はいっぱい買い物したから……」
「ねえ、お願い!」
「……そうね。じゃあ、この荷物半分持ってお手伝いできる?」
「わかった!」
 この雑踏の中、聞き耳を立てていたわけでもないのに、会話はいやにはっきりと聞き取れた。二人の傍を通り過ぎる。一部始終を見届けることは叶わずとも、母親の譲歩により少女はきっと家に帰り口いっぱいにケーキを頬張るのだろうと確信した。

(――いいなあ)

 思わず、自分の胸の内に、そういう感情がふっと湧いたのを自覚する。車が走る筈もない歩行者天国の交差点を前に足を止める。
 もし、もしも、母と良い関係が築けていたなら。普通の家庭に、普通に生まれることができたなら。ああして手を引き合うこともあったのだろうか。考えながら、彼女らの顔を自分たちのそれに置き換えてみる。どうもしっくりこなかった。
 当たり前だ、あれは私たちではないのだから。
(嫌ね、もう子供じゃないんだから)
「しきよくさん?」
 思索に耽る意識を引き戻すかのように足元から声がして、隣を歩く暴食を見下ろした。ああ、そうだ。今の自分は、齢二桁にも満たない小さな少女と、並んで歩いていたのだった。少しでも彼女から気を逸らしていたことを色欲は恥じる。これでは憤怒に顔向けできない。
 続いて暴食が声をかける。
「だいじょうぶかしら?」
「ええ。ごめんなさい、少し考え事をしていて」
 はぐらかすように帽子を被り直し、笑顔を作る。心配げにこちらを見上げる暴食の目が数度瞬いた。
 それを見て、奇妙な感覚を覚える。決して覚えはないのに、どこか懐かしいような、そういう視界。色欲は不思議な気分になった。だって、まるで――
「なんだか、お母さんができたみたい」
「え?」
 突拍子のない発言に色欲は間抜けな声を上げ、暴食は自分の口を思わず塞ぐ。
「ご、ごめんなさい。ちょっと、おかしなことを言っちゃったかしら……」
「……ううん。私もね、今同じこと考えてた」
 眉を下げる彼女に向き直り、かがみ込んで目線を合わせる。
「娘が、できたみたいって」
 暴食が顔を上げる。
 色欲は、彼女にそっと開いた右手を差し出し、悪戯っぽくウインクをしつつこう言った。
「今日は一日、親子ごっこね」
「……ええ!」
 色欲の右手に、暴食の柔く小さな左手が重なる。色欲は確かにそれを、しかと握った。手を繋ぎ、二人は大通りを横切った。

 服屋に食料品、雑貨に書店、ストリートを一通り見て回ったが、なかなかこれといったものが見つからない。互いの間に少し疲労が見えてきたところで、暴食の目線が少し開けた広場の片隅にあるキッチンカーに向いていることに気がついた。どうやらクレープを売っているらしい。
「あれ、食べましょうか」
「いいの?」
「丁度私も小腹が空いていたところなのよ」
 店先に寄っていく。立て看板のメニューを二人で眺め、それぞれ食べたい物を決めてから、店員に声を掛けた。快く応じた店員が、三角巾の隙間から獣の耳を覗かせてクレープを作り始める。
「実はクレープって食べるの初めてなのよね」
「おねえさんでも、はじめてのことがあるの?」
「ええ。食べたことないものだって、やったことないことだって、まだまだいっぱいあるわ」
「なら、わたしはそれよりもーっとたくさん、はじめてがあるのだわ!」
「今から楽しみね」
 腕を大きく広げ可愛らしくジェスチャーをする暴食の手に、出来上がったクレープを握らせる。受け渡されたそれを両手で支え、暴食はクリームが鼻先につきそうな程顔に近づけて目を輝かせていた。
「あっちのベンチで食べましょうか」
 お世辞にも立派とは言えない枯れた噴水の前に、丁度ベンチが一つ空いていた。そこに座るように促して、二人で横に並ぶ。示し合わせるかのように顔を見合わせて、ひっそりと「いただきます」を口にし、最初の一口を頬張った。
「……すごく美味しい」
 初めてクレープを味わった色欲の感想に、暴食もイチゴを口に含みながら笑みを浮かべた。自分が美味しいと思うものを他の人にも美味しいと思ってもらえることは、暴食にとっては大切な幸せの一つだ。味覚の共有は自分に安心感を与えてくれる。美味しそうに食べ進める色欲を横目に、小さな口で少しずつ生地を噛みちぎっていった。
 半分ほど食べ進めたところで、色欲が問う。
「暴食ちゃんは、クレープは食べたことあるの?」
「いちどだけ、あるのだわ。あにさまがおしごとのかえりに、かってきてくれたの。ちょっぴりあわてたようすでかえってきて……ちょっぴりクリームがとけてしまっていたけれど、とってもあまくて、おいしかったの」
 これだけのクリームを焼きたての生地で包んでいるのだから持ち帰りでは劣化も致し方ないだろうに、それでも暴食に食べさせたかったのだろう。その面に似つかわしくないスイーツを手に、焦った表情で扉を開く憤怒を想像して色欲は笑った。七顚屋に来たばかりの頃の彼の印象からは全く思いもよらない姿だが、最近の彼を見ていると少しわかるような気もする。何につけても一生懸命で、かつ案外情のある男なのだ、あれは。
「そういえば、憤怒のことで一つ気になっていたことがあったの。暴食ちゃんは、どうして憤怒のことを『あにさま』と呼んでいるの?」
 食べ終わったクレープの包み紙を小さく折りたたむ。ゴミ箱は無いだろうかと辺りを見回しながら他愛ない会話を続ける。ベンチを埋めていた人々はいつの間にかいなくなっていた。
「あにさま、なまえをずっとおしえてくれなかったから。ごほんのおひめさまが、あにさまってよんでいたのをね、まねしたのだわ。ええと、たしか……」
 る、る……と言葉に詰まる暴食の様子に、色欲はもしかしてと記憶の片隅から一冊の本を引きだして提示した。
「ねえ、それって『ルーグメルデの花冠』って題名の絵本じゃない?」
 それだ、と驚いた様子で暴食が頷く。
「そのごほんだわ! しきよくさん、しってるの?」
「知ってるわ、私もそれ昔よく読んでいたもの! マルス=ベイルの絵本って本当に絵が生き生きとしていて……すごくよく覚えてる。何より、ラミア=シルバが原案の物語は主人公の女の子が……ああ、やだ。ごめんなさいね、懐かしくって急に熱くなっちゃった」
「ううん。しきよくさんがあの本をすきなきもち、すごくわかるから……わたしもね、おなじ人がかいた『メイのぼうけん』シリーズとか、とってもすきなのだわ。なんだか、お外にいけたきぶんになれるから」
 もう随分前に筆を置いたらしい作家、マルス=ベイルの描く本には、必ず終盤のページに見渡すような美しい風景が見開きいっぱいに描かれているのが特徴だった。こっそり人から借りたその絵本は、いつも自分をここじゃないどこかに連れ出してくれる。主人公が、手を引いてくれる。そういう体験をしていた同志がまさか身近にいたなんて、と色欲は一層親近感を抱いた。
「絵本に夢を見なくたって、今の私たちならきっとどこにだって行けるわね」
 暴食が最後の一口を飲み込んだところで、包み紙を受け取ってベンチから腰を上げる。
「さ、もうひと頑張りしましょうか!」
「……ええ!」

 もう何軒回ったかも数え忘れた頃、落ち着いた雰囲気のブティックの中で暴食が「あ」と小さく声を上げた。色欲は立ち止まった彼女の視線の先を追う。棚の隣の方、ひっそりと佇んでいるトルソーに、菖蒲の色をしたマフラーが柔らかく巻き付けられてあった。
 大柄な獣人用なのか、少し長く思えるそれの端を持ち上げて、暴食は生地を優しく撫でた。
「これ、なんだかあにさまっぽいかんじがするのだわ」
 その呟きに色欲も共感した。これを巻いている憤怒の姿が目に浮かぶようだった。
 ショッピングとは出会いであり、直感であり、運命だ。これで決まりだろうと確信した色欲の目に、値札が飛び込む。トルソーの首元に引っ掛けられたそれを、暴食に悟られないようにそっと裏返した。
「決まったかしら?」
「……ええ。わたし、きめたのだわ。これにする」
「いいじゃない! 彼、寒がりだしきっと気に入るわよ」
 傍を通りかかった女性店員の肩を叩く。何でしょうか、と問う店員に、「半分私が出すから、この子には半分の値段で伝えてくれる」と耳打ちすると、一瞬驚いたような顔をしてから、彼女は悪戯っぽく口元で人差し指を立てて暴食に近づいた。
「お嬢さん、それ買うの? 良かったらラッピングしてあげようか」
「いいのかしら? ……お、おねがいしたいのだわ」
「喜んで! じゃあ、商品お預かりしますね」
 マフラーを台から取り外し、店員はレジの方に向かった。その後を追いながら、暴食がぽつりと零す。
「きめちゃった」
「やっぱり、別のが良かった?」
「ううん。でも、ほんとうにあにさま、よろこんでくれるかなって」
 暴食から貰ったものなら例え道端の花でも喜ぶだろうに。何をそんなに心配することがあるのだろうかと思うが、それもまた愛故になのだろう。親愛なる相手を健気に思う彼女のことを今に抱きしめてやりたくなったが、今に至っては自分の役割ではない。代わりにかけられるのは言葉くらいのものだ。
「きっと、喜んでくれるわ。暴食ちゃんが、一生懸命考えて、選んだんですもの」
 膝をつき、そっと頭を撫でてやる。
「その心が、相手を笑顔にするのよ」
 商品と金を引き換えて、店を出る。何とか日が傾く前には帰れそうだと色欲は安堵の溜め息を吐いた。プレゼントの贈り相手より帰りが遅ければ何を言われるかわかったものではない。
「あのね」
 小さな歩幅で足早に歩きながら暴食が言った。
 長い散歩で少し汗ばんでしまっているのに、依然繋がれたままの右手の先を見る。暴食はラッピングしてもらった化粧箱を大事そうに抱えていた。
「きょうはほんとうに、ありがとうなのだわ」
「こちらこそ。楽しかったわよ」
「それでね」
 箱を抱え直し、暴食は色欲の方を見る。
「またいっしょにおでかけしたり、ごほんをよんだり、してほしいの……しきよくの『おねえさん』」
 慣れない呼び方に色欲は少しくすぐったさを覚えた。絵本の『あにさま』の台詞を引用して、色欲は返事をした。
「『おお、我が妹よ。君がそう願うならば、いつでも僕が相手になろう』、なんてね」
 二人はくすくすと笑った。
 彼女たちの笑い声もまた、人ごみに紛れて誰かの耳に届いたかもしれない。