fileEX: WHEEL OF FORTUNE


「風呂貰ったぜ」
 短針が十と一つを指そうとしている頃、リビングに戻れば一人紅茶を飲む色欲が目に入り、傲慢は声をかけた。緑髪の淑女が顔を上げる。
「湯加減はいかがでした」
「バッチリ」
 言葉を交わしながら、傲慢の目の前でコップに牛乳が注がれていった。風呂上がり、彼はよく何かを飲みに台所へ行くことが多いからだった。ありがとう、と礼を言いながらそれを受け取る。
 色欲は、こちらが何も言わずとも傲慢の望むことをして見せる。不思議なものだ、と思いながら注がれたそれを喉に流し込む。体の内側がすっきりするのを感じた。
「食器はこれと一緒に片付けますので、そこに置いておいてください」
「悪いな、助かる」
 そう言ってコップをテーブルの上に置いた彼の手が、色欲の目に入った。
 伸びっぱなしの爪。自分でも何度か削ったのだろう、やや不揃いな形が指先にあった。こんな風にさせたことはずっと無かったのに、と思う。その手が、彼がこの家にいなかった一年間を如実に示しているようで、色欲はひどく寂しさを覚えた。
「傲慢様、もうお眠りになりますか」
「いや……一応そのつもりだったけど、正直まだ眠れそうにはないかもなあ。今日はなんつーか、色々あったし」
「では、私に少しばかり時間をいただけませんか」
 色欲の細い指が獅子の手をとる。
「爪を、整えさせてください」
 傲慢は、その申し出に一瞬不意をつかれたような顔をした後、柔らかな微笑みを以て目を合わせ、言った。
「頼んだ」

 鋏が爪の先を切る音が、二人だけの部屋に響いている。
 ソファの上に並んで腰をかけ、傲慢はその手を色欲に委ねていた。彼女の左手がこうして優しく自分の右手を支えるのも、己の爪が自分以外の者に削がれることも、もう何ヶ月ぶりのことだろうか。そんな思考が、二人にとってこの時間が『当たり前』のものだったのだということを自覚させる。
 時計を見やるついでにテーブルの上の食器たちが目に映り、傲慢はふと思い出す。
「そうだ、持たされた土産全部台所へ戻しといたぜ」
「あら、貰ってしまえば良かったのに」
「家に居んのにオレが持ってても仕方ねえだろ」
「名無しさんがあんなに早く帰ってくるとは誰も思いませんでしたから」
「なんかあれだな。引っ越すって周りに言いふらして盛大に見送られたのに、引越し先がすぐそこだった時の恥ずかしさみたいな」
「ふふ、ちょっとわかります」
「引越しと言えば隣の筋のタバコ屋なくなってなかった?」
「あれ、三丁目に移転したんですよ。何でも占い師に見てもらったところ、この場所で商売を続けていると三年後に潰れることになるぞと言われたようで」
「それ、絶対次の物件買わせる為の手口だろ」
「似たような詐欺が横行していたので、不審に思った競合企業の依頼で我々が調査して締め上げました」
「良い仕事すんな〜」
「ところで傲慢様、少し背が伸びましたね」
「嘘、マジで?」
「目線が近くなったような気がします」
「言われてみれば。自分じゃ気づかなかったな、こっからあと何センチ伸びてくれっかな……」
「ふふ、私ももっと高いヒールを探さねばなりませんね」
「なんでだよ!」
 笑い声を最後に、沈黙が流れる。秒針の音が、微かに耳に届いた。
 色欲は既に鋏をヤスリに持ち替え、切ったばかりの爪を丁寧に磨いていた。傲慢の指先に硬いものが削れる振動が伝わってきて、絶妙な心地良さを与える。
 人差し指の爪が磨き上がる。ヤスリが中指に移り、その間傲慢は削りたての指先を眺めて感心していた。鋭く、程よい長さに整えられた、自慢の黒い爪。長い間伸ばしたままで慣れてしまっていたからか、手には少し変な感覚が残る。だが、形はこれが一番自分らしい。直に指先も馴染んでいくだろう。
「傲慢様」
 唐突に色欲が名前を呼ぶので、傲慢は顔を上げた。彼女は依然手元に視線を落としたままヤスリを動かしている。
「傲慢様は、私の事を運命だと……あの時、そう仰いましたよね」
「半分は冗談だけどな」
 七顚屋を訪ねて二日目のやり取りのことを言っているのだろう。傲慢がいなかった間も色欲が彼の為の珈琲を淹れ続けたことを、傲慢がそれは必然だとわかった上で揶揄するつもりで口にした言葉だった。
「でも、半分は本気だと思ってるよ」
 手元が止まる。少女は顔を上げた。
「もしオレが運命だとしたらこんなに迷惑なこともねえだろけどな! 何せ世界一の傲慢だからさ」
「私は」
 色欲は、首を横に振った。
「私は、それが良いです。そうだと良いと、思って……いえ、信じています」
 交わした視線が、同意を示していた。
「……顔も名前も覚えてない奴を待ち続けた奴は、やっぱ言うことが違えな」
「一番に思い出せなかったのは、結構悔しく思っているんですよ」
「じゃあ二回目でもやってリベンジするか?」
「もうあんな真似は二度としないでください」
「悪かったって」

 それからは一言も交わすことなく時間が過ぎて、十本の爪が無事に整えられた。指先を自分の方に向け、傲慢が目を輝かせながらそれを見ている。
「すげえ! よくあの状態からここまで綺麗にできたな、最高だ! ありがとう、色欲」
 満面の笑顔が感謝を述べる。その表情が見たくて時間を費やした色欲は、心から礼を受け取った。
「私がしたくてしたことですので。お風呂の後でしたし遅いのでよしますけれど、明日は髪も切らせていただきますね」
「ほんとやってもらってばっかりだな、オレ」
 ――どれだけ尽くしたって返せないくらいのものを、もう私は貰っているんですよ。いえ、今も貰い続けている。
 なんて言葉は胸に秘めておいた。きっと貴方はそんな自覚などないだろうから。あの日ただ手を引いてくれた、たったそれだけの行いが、一人の女の人生を満たしてしまっただなんて、誰が想像できるだろうか。何より、私が向けるこの思いを、拒まず受け入れてくれる、それだけで十分なのだから。
「これからも、よろしく頼む」
 隣に立つことを許してくれるだけで、私は幸せになれるから。
「はい、こちらこそ」
 おやすみ、と挨拶を残し、傲慢は部屋を出ていこうとしたところで、強欲がリビングに入ってくる。
「あれ、二人してまだ起きてたん」
 少し間抜けな表情を見て、二人は顔を見合せて笑った。
「多分、アイツもなんだろうな」
「そうですね。きっとそう」
「なあその二人しかわからん話やめろって言ってんじゃん!」
「悪い悪い、話は色欲に聞いてくれ。オレはもう寝るわ。おやすみ」
「おうおやすみ」
「おやすみなさいませ」
 強欲と色欲を残し、傲慢は今度こそ扉の向こうに消えていった。後片付けをしようと立ち上がった色欲に強欲が問う。
「で、結局なんの話だったん」
「運命って素敵ねって話」