fileEX: YOU AND ME
「よし……と」
水垢一つ残さず綺麗に拭かれた置き台の上に、洗濯機を二人がかりで戻して傲慢は軽く手を叩いた。反対側で嫉妬が両手をぶらぶらとさせている。辺りを見回して、部屋の状況を確認する。四時間前に足を踏み入れた時とは大違いだ。埃がかった室内は、躊躇なく床で寝転べるほど清潔な空間へと変わっていた。
「おかみさん、こんなもんでいいかい?」
大声で依頼主を呼べば、驢馬の耳を生やした女が顔を覗かせ、感嘆した様子で声を上げた。
「まあ、すっかり綺麗になって! やっぱり七顚屋さんに頼んで正解だったわ。ごめんなさいね、こんな年の瀬に大掃除の依頼なんか入れちゃって」
「ほんっ……いてっ! えと……こちらこそありがとーございました!」
「さんきゅーな! また来年もよろしく頼むぜ」
客の言葉に「ほんとだよもう!」と隠すつもりも一切ない本音をぶつけようとした嫉妬のわき腹を、傲慢が肘で小突いて牽制しつつ報酬を受け取った。年末だからといって値上げするような小賢しい商売はしていないので、封筒の中にはいつも通りの枚数の札が入っている筈だった。目の前で封を開け、きちんと数を確認する。
一枚ずつ紙幣を捲りながら、傲慢は首を傾げた。嫉妬が横から覗き込む。
「お客さん、一枚多く入ってるよ。はい、これ返すわ」
そういって紙幣を差し出すが、客は首を横に振る。
「いいのよ、これは気持ち。お小遣いだと思って、受け取って頂戴な」
「……じゃあお言葉に甘えて。毎度あり!」
寒い中玄関先まで見送ってくれた彼女に背を向け、二人はその家を出た。
「納めた? 仕事納めた?」
依頼主の家が見えなくなったあたりで、嫉妬は小さな声で傲慢に尋ねた。傲慢はにやりと笑い大きく頷いて見せる。
「……ああ! 納めた!」
「やった~!!」
両手を上げて飛び跳ねる嫉妬の、黒いリボンがひらひらと揺れる。十二月三十一日、今年七顚屋に入っていた全ての依頼が、この日をもって漸く終わった。
帰路は心なしかいつもより人通りが少なく感じる。今日ばかりは誰もかれも皆自宅でゆっくりと新年を迎えたいらしい。静かな通りに、嫉妬の高い声がよく響いた。
「でもほんと、な~にが嬉しくて十二月の三十一日になってもお仕事しなきゃなんないの!? 今日くらい休みにすればよかったじゃん!」
「今日までに仕事が捌ききれなかったんだからしょうがねえだろ、まだ普通の掃除だっただけマシだっつの」
「一年の終わりにお掃除なんか人に頼む方も頼む方だよ! 自分のことくらい自分でやればいいのにさ」
今日の仕事を振り返る。水回りや手が届かないような高いところ、重い家具に隠れた埃まみれの隅々を掃除し、切れた電球を取り換え、窓のサッシの塵までも綺麗に拭き取った。依頼主は獣人の女性。仕事中に差し入れをしてくれたりする辺り気が利く人ではあったが、それでもこの忙しい時期に依頼をしてきただけに嫉妬からの第一印象は最悪だった。
隣で呆れたような溜息が漏れる。
「ま、そうやって自分のことを自分で始末できねえから、人は人に頼って生きてんだろ」
両手を上げて文句を垂れていた嫉妬は、傲慢の方を見て、徐にその手を下ろした。
まだ昼過ぎだというのに、もう既に日は傾き始めている。傲慢の横顔越しに見る太陽は、酷く眩しく思えて、嫉妬は目を細めた。
「結局、ヒトって一人じゃ何にもできない、弱っちい生き物なんだね」
「そんで、そういう奴らのお陰でオレらは美味い飯が食えるってワケ!」
「そっか!」
二人で顔を見合わせて笑い合う。家に帰れば、きっと色欲が美味しいごはんを準備しながら待っているはずだ。面倒な事務処理は、きっと憤怒と強欲がやってくれる。その間に、暴食と怠惰と一緒にトランプでもして遊んでおこう。
そんなことを考えながら隣を歩く傲慢を見ていると、嫉妬の中にちょっとしたいたずら心が湧いてきた。特に今年の初めは彼もいなかったのだし、その分までもう少しからかってやらないと、おちおち年も越せないというもの。少し後ろに下がって、仕掛けるタイミングを見計らう。自らの袖を捲る。傲慢が一つ、大きな欠伸をした。
「冷たッ」
突如頬を襲う冷ややかな質感に、思わず傲慢は肩を竦めた。閉じた目を開いてみる。嫉妬の顔が目の前にあった。顔を包むそれを確かめるべく、左手でそれに触れる。
「……手?」
「せーかい!」
嫉妬の手が傲慢の頬を持ち上げる。驚いたままに口元が上がって、間抜けな顔を晒していた。傲慢くんをこんな顔にしてやれるのなんか、きっとアタシだけだ。そう思うと、笑いがこみ上げてくる。
傲慢の言葉を待ち構える。視線を彷徨わせながら、言いたいことがやっと決まった様子の彼の口が開いた。
「お前、そういう手、してたんだな」
そっと手を離す。傲慢の目の前で、その両手を翳して見せた。
「そうだよ。ヒンヤリしてて、気持ち悪いでしょ。ヘビのうろこ付きだよ」
大好きな母から受け継いだ、蛇の遺伝子。これのせいで母は死んだ。忌み嫌われるものだと思って、ずっと誰にも見せずにここまできた。勿論、七顚屋の皆にも。父と母以外にこれを見せたのは、今この瞬間が初めてだった。
傲慢は、その手をまじまじと見つめると、いつもと変わらない笑顔で、こう言った。
「いいんじゃねえの。お前っぽくて」
「……ほんと、そーゆーとこ嫌いだよ」
でも。キミの隣でなら、自分のことも、世界のことも、もうちょっとくらいは好きになれそうな気がするよ。
一人じゃ生きていけないから、キミは皆を集めて、アタシたちはキミのところに集まった。アタシがいるからキミは傲慢で、キミがいるからきっとアタシは嫉妬なんだ。
袖を下ろして、元通りに手を仕舞う。傲慢のように堂々とそれをさらけ出すには、あと少し時間が欲しい。足を止めた傲慢を置いて、一目散に駆け出してしまう。
「ほらも~早く帰ろ、傲慢くんの頼んだカラオケ機届くの夕方でしょ! 早く帰って先に受け取っとかないと、憤怒さんに言い訳できないよー!」
「あっおい、何でお前がそれを知ってんだよ!」
来年も再来年も、今日みたいにいつまでも楽しい日が続けばいい、だなんて高望みはもうしない。十九にもなれば、人生上手くいかないことばかりだってことくらいもうわかる。それでも。あの家で皆と暮らしている限りは、七回転んでも八回起き上がって笑えると、嫉妬はそう思った。