file02: TRIO THE TAIL


(一)

「そこの男、止まりなさい!」
 白昼公然、街路を駆ける男と女。緩やかな人の流れに逆らう二つの点を、通りすがりの買い物客が、飲食店でランチを楽しむ者が、或いは日向ぼっこをする猫までもが、揃って目で追っていた。
「止まれと言われて止まるやつがあるか!」
「普通は止まるわよ! 後ろめたいことが何も、なければね!」
 平日の昼時、男はそこそこに混雑している通りにも関わらず人と人の間を器用にすり抜け、女は鬼の形相でそれを追いかけていた。仲のいいカップルの追いかけっこなどではないことは、クレープを頬張る五歳の子供でもすぐに理解できる。大方、男が悪事を働き逃走するのを、被害者なのかそれとも正義感に駆られた第三者なのかはわからないが、女の方が捕えようとしているといったところだろう。別に、ここ『マキア街』では珍しい光景ではなかった。お世辞にも治安が良いとは言えないこの街では、こういう小さな事件は日常茶飯事だ。
 逃走する男――名前はまだ無い――は、後ろをちらと振り返り、自分を追うその人を見た。依然として諦める気配はない、顔を見ればわかる。が、もっと気になったのは彼女の風貌だった。女優帽とでも言うのだろうか、頭に載ったつば広の羽根つきハット。走るには少し重いのではないかと心配になる豊満な胸部と、踊り子の如く露出の多い衣装。スカートなんかは足先までの長さがあり、どう考えてもあれは魅せるための服装だ。足元を見やればサンダルのヒールは女の身長を十センチは盛っているように見えた。それが石畳を容赦なく蹴っている。この装備で、どうして自分を追い続けられるのだろうか。彼は今、内心頭を抱えていた。
(こうなっちゃ奥の手を使うしか……)
 男は身体を傾け左足を踏み込み、細い路地へと曲がっていく。負けじと女がそれを追う。日の光が差さない道をぐんぐん進んでいく。日陰に生きる彼にとって、路地裏は庭のようなものだ。慣れたフィールドで、確実に追っ手を撒こうと、試みた。後ろを振り返れば、女との距離が開きつつあるのが見て取れる。あとは”奥の手”を使えば逃げ切れる。勝利を確信した男の気分は高揚し、先刻の焦りが嘘のように意識は段々と盗んだ金の使い道へと回っていった。
 が、しかし。
「ざーんねん。逃げた先にはオレが先回りしているのでした」
 若い男の声に前方を注視する。彼の目の前に何やら人影が見える。一抹の不安を覚えながらも後には退けず駆け足で前に進めば、次第にその輪郭がくっきりと見え、男は驚きのあまり目を見開いた。
「あ、あんたは!」
 男の足が急ブレーキをかける。間違いない。先刻、まさに自分が金を盗った相手が、そこで待ち伏せていたのだ。
「な、なななんでここに!」
「一つ隣の通りから回り込んできただけだよ。お前、ここへ逃げ込むように誘導させられてたってのに、まさか気づかなかったのか? そんなんじゃ、盗みも逃げも向いてるとは言えねえな」
「っおい、今のは聞き捨てならないぞ」
 少年の煽るような言葉に男はムッとした。これまで数多の金品を盗んできた彼だったが、逃げることに関してはまず失敗したことが無かったのだ。そのプライドを傷つけられ、これまでいかにして逃げ仰せてきたのかを語りたくて仕方がないが、勢いに任せて手口をバラすわけにはいかない。口が開く前に不意を打ってそれをお見舞いしてやると隙を見定める。
 背後から駆けてきた足音が止まった。女が追いついたらしい。はさみうちになったところで、目の前の少年の意識が僅かに女の方へ向く。
 今だ。そう思い右足を一歩引き、とっておきを繰り出そうとする。それを見た少年の眉がぴくりと動いた。
「おい、『そこから動くな』」
 その言葉と共に、少年の金色の目が、男を貫く。
 瞬間、脳を駆ける自分ではない者の意識。全神経が「逃げろ」という己の指令に背き、「動くな」という少年の命に従った。辛うじて瞬きと呼吸は許されているようだが、首から下は指先一つ動かない。男は動揺した。催眠術か? 洗脳の類か? この場でそれを知ることは叶わないが、男は今、自分が負けたことだけを理解した。
 背後から手首を掴まれた感覚に、ようやく呆然としていた意識を取り戻す。
「捕まえた。さてと、傲慢様のお財布は返してもらうわよ」
「ちょ、離せ! ああっ」
 手に掴んでいた財布はあっけなく取り上げられてしまった。体はまだ言うことを聞かない。じたばたしようにも身動きが取れない滑稽な男の姿を、『傲慢様』と呼ばれた少年が鼻で笑う。
「お前往生際が悪いな、諦めの悪さも時には肝心だぜ」
「あんたらに言われたかねーやい!」
 傲慢は女から財布を受け取ると、獅子の毛に覆われた大きな手で一枚一枚紙幣を捲りながら中身を確認した。不器用な手つきから、日ごろ金に触り慣れていないのが丸わかりだ。
「ひ、ふ、み……よし、ちゃんとあるな。ご苦労さん色欲、無理させて悪かったな」
「いえ。お役に立てて何よりです。それよりもこの男、いかがいたしましょうか。しめますか?」
「どうすっかな、このまま逃がすのも追っかけた甲斐がねえし」
「や! 悪かったよ、反省してるからさ、あの、痛いのだけは勘弁してくれ」
 物騒な会話に慌てて謝意を示す。
 男はどうやら厄介な連中を相手にしてしまったらしい、と今更になって悟った。顔が青ざめていくのが自分でもわかる。田舎者くさい顔つきの子供と淑やかな美女を勝手に侮り、この二人相手なら難なく掏れるだろうと今日の獲物に選んでしまったが運の尽きである。
 己の処遇を思い絶望する一方で、男は何かが引っ掛かったような感覚を覚えていた。少年の名は傲慢、女の名は色欲というらしい。名前にしては奇っ怪で、しかしどこか身に覚えのある単語。
「なあ、傲慢に、色欲っていうのか。あんたらさ、もしかして――」
 男が話しかけようとしたその時だった。
 傲慢たちの背後、大通りの方から、耳を劈くような爆発音が届く。三人は振り返った。続くように、人々の騒ぎ声が聴こえ始め、ざわつきは路地まで響いてくる。
「おいおい、今の音はなんだ? マキアは真っ昼間から花火打ち上げるような腑抜けた街なのか」
「あれを歓声とするには少々無理がありますが。確認してきましょうか」
 名乗り出た色欲の足元を、表を駆けていく人間の影が何度も通り過ぎていった。傲慢は首を横に振る。
「や、いい。どうせだし皆で行こう」
 その言葉に男が顔を上げる。
「ちょっと待って。皆ってもしかして俺も含んでる?」
「そりゃそうだ、オレたちを走らせた分は付き合ってくれないと割に合わねえだろ」
「そんなあ」
 男は傲慢に手を掴まれたまま、引きずりだされるように外へと連れ出されていった。

 表通りに顔を出してみれば、既に人だかりができている。その中心で何が起きているのかは傲慢の低い身長ではよく見えなかったが、代わりに建物からは黒い煙が立ち上っていた。
 傲慢は、自分たちと同様に群衆を覗き込む野次馬の一人に声をかける。
「なあ、何があったんだ」
 男性が振り返る。どうやらごく普通の人間であるらしい彼は、傲慢の獅子の手を見るなり、鬱陶しそうに一瞥してその場を去っていった。引き止めこそしなかったが、代わりに「あらら」と声を漏らし傲慢はそれを見送る。無視されることに対して憤慨したり、或いは落胆するほど狭量な性格ではないとはいえ、マキアの街の様相には未だ慣れない。
「では私が」と色欲が一歩前に出て、違う人物の肩を叩いた。帽子を被った初老の男性だ。
「もし、そこの方。失礼ですが、ここで何が起きたのかご教示いただけます?」
 色欲の風貌を見るなり少し背筋を伸ばした男性は、帽子を取り極めて紳士的に答えた。
「ありゃ爆弾テロですな。近頃しばしば起こっている」
「テロ?」
 少し大袈裟に肩を竦めて怯えてみせる。
「なんて恐ろしいのかしら。遠方から来たのですけれど、こういうものに立ち会うのは初めてで。犯行グループはもうわかっていますの?」
 会話を進める二人の隣、傲慢に見張られている窃盗犯の男は目を凝らして建物を見ていた。
 煙の向こう側、何かの影がちらついている。
「おい、あそこ」
 男は傲慢を肘でつつき、注意を促す。
「あれ。まだ中に誰かいるよな?」
「どこだ?」
 傲慢は、彼の指の先を追って建物の五階に目を向けた。どうもうろうろと動いているそれは、彼の目にも人影に映った。
「……あれか! そこで待ってろ、ちょっと行ってくる」
「は? あんちゃん何言って」
 予想外の言葉に男が呆気にとられているうちに、傲慢は人の波をかき分けて建物の方へと進んでいった。それに気づいた色欲も「あの、どちらへ!」と声をかける。が、既に喧騒の向こうに消えていった彼には届いていないらしく、戻る気配がない。男と色欲は顔を見合わせた。
 傲慢は依然止まることなく人を押しのけていく。周囲の人間は爆心地に向かう少年のあまりに突飛な行動に、抵抗するでもなく従い道を譲った。
「悪い、そこどけ! 通して……っと」
 漸く建物の正面に出た彼は、大きく割れたショーウインドウを躊躇うことなく潜り抜け、中に侵入した。
 酷く煙たい空気に首元のファーを顔へ寄せて息をする。散乱する商品と割れたガラスの破片で床は足の踏み場も無い。踏みつけないように気を払いながら、倒れた陳列棚の間を通り抜けて奥の階段へとどうにかこうにか辿り着く。
 そこから先は早かった。二階、三階と続く階段を一気に駆け上がり、目的のフロアへ足を踏み入れると、部屋を見渡した傲慢の視線の先に一人の少女が目に留まった。
「お、見っけ」
 涙目で部屋の隅に蹲る彼女は、瓦礫を押しのける音に顔を上げた。煙の向こう、赤髪の少年の姿が見える。よく見れば、手は人のそれではない。突如現われた獣人に身を縮こまらせる。
「こっ、来ないでよ!」
 これ以上引き下がる場所もなく背を壁に強く押し付けて、少女は強い警戒を向けていた。
 傲慢はそんな彼女の様子は全く気にも留めず、足元に倒れる棚や商品、ガラスの破片を飛び越えて少女に迫る。こちらを見上げ首を静かに振る少女の前に立つと、屈み込んで彼女の目を真っすぐ見て言った。
「さっさとこっから、逃げたいだろ」
「…………う、ん」
「よし。ならオレの言う通りにしろよ」
 戸惑う彼女を抱き上げて、元来た方向を振り返る。さて、来た道を引き返そうとしたところで傲慢は足を止めた。
「っておい、道塞がってんじゃねえかよ!」
 すっかり火が迫り、とても抜けられる状況にはない。煙の匂いが傲慢を焦らせる。
「あの、あっち」
 腕の中で少女が窓の外を指さした。開きっぱなしの窓に駆け寄り、傲慢は下を見下ろす。群衆がこちらを見上げ、固唾を飲んで見守っているのが見える。ビルの五階の高さは、人を背負って飛び降りるには少しリスクが高く思えた。
(行けなくはない、とはいえ……何かもっと確実に降りられる方法が欲しいが)
 隣の建物に移ろうにも距離が絶妙に遠い。届かせるには室内に障害物が多すぎる。壁を伝って降りるには外装があまりにフラットだ。
 窓の外を見下ろして降りる術は無いかとひたすらに探す。そんな彼の耳に、馴染みのある女性の声が聞こえた。
「傲慢様! こちらに!」
 ハッとして声の方を見やる。階下に色欲の姿、いや、それ以上に目を引く異物が彼女の傍にあった。
「なんだあのでけぇクッション!?」
 まるで飛び降りる人を受け止めるためのそれが、都合よくそこにあった。あれなら、躊躇なく飛べる。打開の一手に口角が上がる。
 腕の中の少女を抱え直し、彼女の頭を優しく撫でて宥めつつ声を掛けた。
「行くぜ、しっかり捕まってろよ!」
 窓枠に足をかけ、涼やかな風を浴びる。その高さに唾を飲む。息を細く吐いて、もう一度深く吸って飲み込み、覚悟を決めて、飛び込んだ。
「きゃ――!」
 落下する身が風を切る。冷や汗が頬を伝って上へとのぼっていくようだ。風音と少女の叫び声が耳元でうるさい。数秒もせぬ間に、眼前に地面が近づく。
 ――ドン!
 二人の身が勢いよくクッションに突き刺さり、その柔らかさに包まれたと同時に、建物の上階が再び大きく爆発した。
「あっ、ぶね……」
 クッションの中、舞うように落ちてくる灰を浴びながら傲慢は天を見上げて乾いた笑い声を上げた。
 隣で泣き出してしまった少女を抱えながら、身を包むそれを滑り降りる。地面に足を着いた所で、やっと飛び降りた実感が湧くようだった。
 青い顔をした色欲が駆け寄ってくる。
「傲慢様、お怪我は」
「オレは問題ない、コイツを見てやってくれ」
 色欲に少女を預け、体を捻りつつ自らの身体に異常はないか確かめていると、先程までそこにあった筈のクッションが忽然と消え失せていることに気がつく。あんな大きなものが一体何処へ? と疑問を抱いていると、遅れて窃盗犯の男がやってきた。
「おういあんちゃん! いきなり飛び出したと思ったらさあ……俺が居なかったらどうするつもりだったのよ! 下手すりゃ二人まとめてオダブツだぞ!」
「何とかなったんだからいーじゃん……ってかお前何かしてくれたっけ」
「ああ、あのクッションなんですが――」
 横から色欲が口を挟むのに釣られて、介抱されていた少女が顔を上げる。少女は男の顔を見るなり顔を青ざめさせ、震える唇を開いた。
「この人」
「え?」
「爆弾! 置いていったの、この人だよ! ミカ、見たもん!」
 少女のよく通る大きな声は、彼らを囲む群衆にもよく響いた。テロリストは、この男だと。周囲は騒然とし、怯えるように揃って数歩下がってみせる。
 言われた言葉を遅れて理解した男は、首と手を大きく振った。
「ち、違う違う! 人違いだって! 俺そもそもこの店に入ってすら」
「その人が十分前くらいにここ出てくの、僕も見たよ!」
 人混みの中から顔を覗かせた少年が声を上げる。純朴な子供がそういうのならば、それはもう事実と断定して差し支えないだろう。そんな空気が広がり男に向けられる視線が一気に冷ややかになる。
「貴方、これどういうこと?」
「俺が訊きてえよそんなこと!」
 男に詰め寄る色欲を横目に、傲慢は違和感を覚えた。十分前と言えば、男の逃走劇に決着が着いた頃の筈だ。その時には既に自分たちと彼は一緒にいた。少年の時間感覚の正否が気にはなるが、そうだとしてもこんな大仰な事件の火種を仕掛けた後で、現場の近くで盗みを働くなどという目立つ真似はする筈がない。計画的な犯行を行う人物であれば尚のことだ。
 二人の間に割り込み、傲慢は男の肩を掴んでその顔を覗き込む。
「おい。お前、『本当のことを言え』」
「だから、マジでやってねえんだって!!」
 傲慢の問いと、それに対する返答を聞いた色欲は、傲慢の言葉の意図を理解する。機転をきかせた彼女は、傲慢の影に隠れるようにしながら男の手を尻尾で掴み、咄嗟に色欲自身の首元を掴ませた。思いがけない行動に男が目を見開く。
「嬢ちゃん、何を」
「いいから言う通りに」
 色欲が耳打ちをする。その内容を聞いた男は、苦い顔をしながら渋るような声を上げながらも、意を決して群衆達に言い放つ。
「お……おい! それ以上近づいてみろ! この女がどうなっても知らないぞ!」
 どこから取り出したのだろうか、ご丁寧にナイフまで突きつけて、可憐な美女・色欲を人質に市民を脅す。
「離しなさいよこのクズ!」
「テメェ、ふざけんな!」
 などと演技をしながらも三人は目で会話する。
(オレが合図を出す、せーのでいくぞ)
 傲慢はテロリストと勇敢に戦うべく腰の刀に手を伸ばす。
(承知しました)
 色欲は拘束された身を捩り、痛々しい声を上げてみせる。
(マジで言ってる?)
 男は色欲の首元にナイフを押し付け、騒ぐ市民を誰一人として近づけさせない。
(……三、二、一)
 傲慢が刀を引き抜く――かと思いきや、その柄を叩いて鞘を跳ね上げた。それこそが示し合わせた合図だった。
(逃げろ!)
 三人は揃って地面を勢いよく蹴った。人混みの比較的薄い端の方へ駆け出してみれば、彼らの気迫に怯えた野次馬が避けて道を譲る。都合がいいとそのまま囲いを抜け、一目散に街路を駆けた。
「待てこら!」
「何だありゃあ」
「逃げるな!」
「お姉さんを返せ!」
 最後尾の傲慢がちらと後ろを振り向いてみれば、口々に騒ぐ中数人がこちらを追ってくる様子が見える。置き土産と言わんばかりに、彼はこう言った。
「危ねえから、『そこで待ってろ』!」
 群衆を置いて、三人はその場から逃走した。

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