Prologue: PRIDE MEETS ENVY
空を、雲が覆っている。
朝か昼か夕暮れか、はたまた夜かもわからないほどに厚く覆う雲が大地に向けて雨粒を零す。そんな地に、少年は力なく倒れ伏していた。
獣人なる、普通の人間とは異なった獣の特徴を持つ人々が住むこの国に、人が移り住み早数百年。奴隷として働かされ、家畜同然の扱いを受けてきた時代よりは多少ましになったとはいえ、獣人に対する差別の名残は至る所で見受けられるのが現状だ。
そんな中で、集落を発ち武道を志したその少年は、とある武闘大会に出場するために単身街へと降りた。優勝者には多額の賞金。貧しい家族を養うには充分な額だ。獅子の血を持つこともあり、かつては村でも負け無し。都会でも通用するほどの腕はきっと持っていた。
それが、このザマである。村を出て数日経ったある日、街を出歩いていると、彼の噂を聞きつけたらしい十人前後の人間に絡まれ、そのまま殴られ、蹴られ、刃物まで持ち出され、なんの抵抗もできずに完膚無きまでの袋叩きに遭ったのだ。いくら力があろうとも、一対多では打つ手なし。多勢に無勢という言葉の意味をその日彼は思い出した。
アスファルトは冷たく、傷口には雨が染み込む。ふざけるな、ふざけるな。このオレが負けただと? 滲む視界に少年は悪態をついた。そもそもこの戦い――否、一方的な暴力に勝利も敗北も存在しないだろう。そこに残った事実は、自分が今こうして倒れているという、ただそれだけのことだ。しかしそれでも、彼が初めて味わったナイフの切っ先は、痛みとともに敗北を刻み込んだのだ。
思ったよりも傷が深いな、となんとなく彼も理解し始めていた。このままでは失血死も有りうるだろう。だが、少年の頭には今、自分の命についての思考を割く余地などなかった。
「オレは、勝者でなければならない」
絶対的な力。圧倒的な支配。それをいかにして手に入れるか。これが今の彼にとっての最優先事項。もはや先刻の醜い人間どもなど眼中にすら無い。
「オレが、王者でなければならない」
力を手にし、己が全てを統べる王となる。生を得たくば強くあれ。正を得たくば上に立て。そう頭の中で何者かが囁いた。もはやかつての自分は記憶の彼方。今この瞬間、彼という存在を満たしていたのは罪とも呼べる『傲慢』な願いだった。
膝を立て、手をつき、震える足で体を支える。やっとの思いで立ち上がると傷口が開き、腹から血が流れていく。紅く染まった地面は直ぐに雨に流され、命が溶けて流れてゆく。だがそんなことはどうでもいい。
――この戦場では、立ったものが勝者なのだから。
「おめでとう、少年。君は、頂点に立つ者だ」
*
「して、貴様。これは何だ」
男が一冊の帳面を開き少年の前に叩きつける。
「全自動ゆで卵の殻剥き機とは一体どういうことだ、説明しろ傲慢!!」
『傲慢』は態度を変えることなく机の上に足を投げ出してふんぞり返っていた。月末になるとここ『七顚屋』でよく見るいつもの光景だ。
七顚屋は数年前に出来た便利屋――探偵、護衛や用心棒の依頼からくだらない機械や家の修理、更には表では言えないような”そういう”仕事まで受け付ける本当に便利な店だ――である。現在スタッフは計六名。そのいずれもが獣人と呼ばれる種族であるが、それ以外に彼らにはある共通点がある。
「いや、予算余ってるからいっかなーって? なんかほら、いっつもゆで卵の殻剥くの手伝わされるのめんどくさいじゃん? オレなんかこんな手してるから余計に難しいわけよ、そしたらその仕事が憤怒のとこに回ってくる。結果的にお前の仕事が増えるってわけだ。お前だって時間は有効活用したいだろ」
『憤怒』の顔にはみるみるうちに眉間に皺がより――それどころかその顔は狼そのものへと変質し始める。所謂狼男である。デスクを掴む手に力が入り木材がとうとう悲鳴をあげた。
そう、彼らは名を持たない。ここにいる全員が、『原罪』を名乗る謎の人物によって名を奪われ、その代わりに『七つの大罪』と呼ばれる罪を与えられた人間なのである。成り行きで傲慢の元に集まったこの五人は、こうして共同生活を営みながら原罪に関する足掛かりを得るために情報を集めているのだ。
「黙って聞いていればぬけぬけと……そうやって貴様が無駄遣いをするから私が毎月の予算のやり繰りに頭を悩ませ、結果仕事に手がつかんのだ。そして見ろあのザマを!」
もう既に狼そのものになった憤怒が指した先にあったのは明らかに故障したと見えるその全自動ゆで卵の殻剥き機である。恐らく修理すれば使えないこともないが、憤怒はこの先誰も手などつけないだろう、とひとり確信した。
「憤怒、過ぎたことはほどほどにしておきなさいな。暴食ちゃんにまた顔が怖いって怒られるわよ」
「色欲、このいい加減なリーダーを甘やかさんでくれ。大体貴様はいつも……」
『色欲』と呼ばれた女性は、壁に背を預け新聞を読んでいた。長く美しい髪とスカートから覗く白い脚が眩しい。そして何よりも――その豊満な胸と細い腰の起伏が魅了してきた男は数知れず。
憤怒の長い説教が始まったが、気にもとめず色欲は記事に目を通す。これが彼女が傲慢の下に秘書としてついてからの毎朝の習慣であった。唯一忠誠を誓う主からの「朝一番に出た情報は漏れなく全て把握しておけ」という命令は、指示された日以来侵されたことは一度たりともない。
「連続絞殺事件……昨晩は二人、ねぇ」
と呟いたところでようやく説教を垂れる憤怒の口が止まった。傲慢が興味を示しデスクから身を乗り出す。そのままデスクに腰かけようとしたところで行儀が悪いと言わんばかりに憤怒が睨むが、彼は素知らぬふりをして新聞を覗き込んだ。
「へえ、またか。まだ犯人は捕まんねえのな」
「人気のない場所で確実に殺されているからな、証拠もない上に目撃者も誰一人としていないんだろう。被害者は?」
「今回のはどちらも男性ね。普通の人間の」
ここ一ヶ月ほど続く『連続絞殺事件』は彼ら七顚屋も気にかけていた事件である。夜、人通りの少ない路地裏で二、三人、多い時は四、五人が首を絞められて殺される。そして多くの場合、所持品の中から何かを盗られた痕跡が残っているのだがそれがまた妙だった。金品をはじめとした貴重品からただの菓子まで、価値にあまりにも差がありすぎる。そんなこんなで七顚屋にも一人で夜遅くに出歩けない人々から護衛の依頼があったりなかったり。
「女の人もいるけれど、男のひがいしゃも少なくないのだわ。あにさまもお外へ出るときは気をつけてね……?」
ツインテールの少女『暴食』が憤怒の元へやってきて彼の裾を引いた。テーブルには大皿がきちんと重ねられている。ケルベロスの如く頭を三つ持ち、その小さな体で一般人の何倍も食べなければ生きていけない彼女は、無論食事の時間も長い。色欲は新聞を置くと一足遅れて完食した彼女の食器を片付けに行った。
「勿論だ、お嬢の心配には及ばない。寧ろその時は私が返り討ちにしてやろう」
「それもそれでかわいそうなのだけど……」
そう言って暴食は手を離し、ソファへ座ろうとする。と、ここで隣の部屋から何かが落ちたような酷く激しい物音が聞こえてきた。
「おう怠惰、今日はいつにも増して遅いな!」
ゆっくりと開いた扉からゆっくりとした動作で角の生えた少年『怠惰』が入ってきた。ベッドから落下したのであろう。頭を抱え、そのままのろのろと暴食の向かいのソファへ倒れ込む。
「いいや、今日はまだ早い方だと思うんだけど……おはよ……」
「たいださん、『おはよう』じゃなくて『おそよう』の時間だわ! もう十時すぎよ!」
暴食がぷりぷり怒る。もしや憤怒の怒り癖が移ってきたのでは、と考えながら傲慢はその様子を眺めていた。むっくりと起き上がった怠惰は手にした枕を抱えてひとつ欠伸をする。
「で、話を戻すけどもお前らはコレの犯人はどんなヤツだと思う。また獣人側の恨みか?」
「そう決めつけるのは早計だろう。実際襲われているものは裕福な人間が多いが、どう見ても経済的に苦しい生活を送っていたであろう者もいれば獣人の被害者もいる」
憤怒がノートパソコンを手にし、どこから入手したのかもわからない事件の被害者リストを開く。そっとデスクに置くと、四人がその周辺に集まってきた。
「その上盗られたものに関しても共通点があまりにも少ないのよね……犯行は無差別だと捉えるべきかしら」
「騒ぎに乗じてやった模倣犯がいないとも限らないけれど、オレの勘じゃあ少なくとも計画性は無いと見えるんだよな」
この手の事件は獣人居住区と人間居住区の混合地帯であるここマキア街ではよくある話であるが、とはいえこれまでのものと同質のものにはどうも思えない彼らは一様に首を捻る。
「こんなに大きな人までひとりひとり首をしめてころしているのかしら……よっぽど力の強いひとなのね……」
と暴食が指さしたのは身長二メートル超のガタイのいい男である。絞殺でなくてももっと確実な殺害方法はいくらでもあるはずだ。よほど腕に自信があるのだろうが、確かに何故これほど『首を絞める』ことに固執しているのか。
煮詰まる一同の沈黙を破り怠惰がようやく声を出した。
「ってゆーか、考えてるところ悪いんだけど……今日はごーよくくん、まだ帰ってきてないの……?」
はっ、となって辺りを見回す大罪達。確かに今朝から、この家では一番うるさい筈の『強欲』の気配が全くない。
「まぁほんと、今の今まで気づかなかったわ」
「アイツ、昨日の夜から金稼いでくるってカジノへ出掛けたんだよな? 朝飯の時間になっても帰ってこないのは珍しいな」
「あの狐の事だ、野性を思い出し森にでも帰ったのでは――」
「助けて!! くれ!!」
バン、と勢いよく扉が開かれたかと思えば転がり込んできたのはその強欲だった。慌てて駆け込んでくると傲慢の肩を掴んで震える声でまくしたてる。
「おいおいなんだ強欲、つーか金の入った鞄は」
「そんな場合じゃねえって! 俺っち!! 殺されかけたんだって!! いやまじで!!」
「きつねさんだって人のこと言えないのだわ……」
「ごーよくくんが殺しかけたの間違い……?」
勘弁してくれと言わんばかりにぶんぶんと首を振ると、汗が飛び散った。余程急いで走ってきたらしい。だというのに顔は真っ青に染まりまさに恐怖に震える狐そのものである。
「違う違う!! あれだよあれ! 最近流行りの、なんだ、首絞め殺人!!」
「なんだと!?」
今度は憤怒が強欲の肩を掴んで引き寄せた。「貴様一度落ち着け! 落ち着いて見たことを全て話せ!」
強欲は三度ほど大きく深呼吸すると、何故か後ろを振り返って何かを確認してから話し始めた。
「俺っちが今日の朝三時頃にここへまっすぐ帰ろうとした時だ。はじめは気の所為だと思ったんだけど、どうやら後をつけてくる奴がいる。足を早めて撒いてみようかと思ったけど、一向に距離は広がるばかりか足音が近づいてくるもんだからまさかと思って振り返ったんだ。そしたら――」
一呼吸おいてそっと首に手をあてる彼は、未だに事実を受け入れ難いという顔で半笑いしている。
「後ろには誰もいなかった、と思ったらいきなり背後から首を絞められたんだ。突然の事で何が何やらわからなくて、でもとりあえず死ぬのはゴメンだったから、その場で咄嗟に化けて相手の手をすり抜けて……金を拾ってる暇もなかったから、大慌てでそこから走り去ったって感じ。顔はちゃんと見れなかったけど、外見はなんていうか、すごく白が印象的だった。ボトムスは黒な気がする。性別まではちょっとわからなかった……」
「よし、ちゃんと相手の外見を覚えて帰ってきたことだけは褒めてやる。で、貴様。先程から背後を気にかけているようだが、ちゃんと撒いたんだろうな?」
メモをとり終えた憤怒がそう尋ねると強欲は静かにその場で土下座をし――「サーセン、ちゃんと撒けなかったみたいでもしかしたらその辺に……」
頭を抱える一同。ため息をついて色欲が言う。
「はぁ……貴方、そういう事は先に言いなさい。傲慢様、どうされます?」
傲慢がデスクから飛び降りる。
「丁度いい、このオレが直々に出てってやるよ」
そうしてひとり外に出てきた傲慢であるが、彼にもまた計画性など無かった。ただ外を彷徨ってみて、怪しい人がいれば捕まえる。ただそれだけの行為に対して彼は準備など必要としない。いつかに原罪に授かったその左目で、誰であろうと有無を言わさず従えることが出来るからだ。
七顚屋の事務所から少し離れ、人通りの少ない路地裏に入る。空は曇天。ぼんやりと見上げつつその道を通りカジノのある方へ向かっていくと、そこには札束が一つ落ちていた。
「ふーん、見たところ強欲が落としたので間違いなさそうだな」
とすると、彼が持ち歩いていたはずのアタッシュケースはどこにあるのか。そうかがみ込んで考えていたところで、背後に人の気配を感じた。
そこからの流れは光のように速かった。
動きは視認せずとも完全に見切っていたといえる。潜在能力も経験の差も傲慢が圧倒していた。後ろからそっと伸びてきた手を即座に立ち上がって振り返り、そして右手で掴み、そのまま手前に引き寄せる。――心なしかその腕は服の布越しにもかなり細く感じられた。
「おう、お前がオレの部下を絞めたって野郎か、 このままで生きて帰れると思うなよ――って、ん?」
白い髪に白い服。強欲が話していた条件とは完全に一致する。するのだが、傲慢は一つ酷く思い込みをしていたのだった。
その"少女"は全くなんの悪気もなさそうな平然とした様子で傲慢を見つめ返す。
「おいおい、犯人がまさか女って……」
「あの……なんかごめんね? アタシ、『嫉妬』っていうんだけど。これは……お仲間さんの落し物?」
少女の左手に見覚えのあるアタッシュケース。傲慢は全てを理解した。
これが、全ての始まり。罪を背負う七人の、七転八倒の物語の起こりである。